魏呉蜀の三国時代、しかし、天下の覇権を巡り戦い続けた魏と蜀に比較して呉は、なんだか蚊帳の外のような扱いに終始している感じがします。
でも、実際、それは感じがするだけではなく孫権には中華を統一するつもりがあまり無かったとしたらどうでしょうか?
今回は、呉を完全に地味にした孫権の野心の無さを考えます。
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この記事の目次
国を存続させるのにイデオロギーが不要な呉
国家とは人間の集まりですから、その中心核には国の正統性が必要です。それが人々の様々な願いをまとめて接着剤の役割を果たしています。例えば、魏は後漢王朝から禅譲を受けて帝業を継いだという強烈な自負があります。
一方で蜀は建国者の劉備が漢室の末裔を売りにしていた経緯から、魏の禅譲を認めず、我こそが漢王朝の後継者であると主張しています。
これを看板倒れで終らせない為に諸葛亮は毎年のように北伐を繰り返すのですから後漢の正統な後継者イデオロギーが蜀の求心力でした。
ところが、これに対して呉には孫権が即位しても、これという正統性がありません。精々、どこからか瑞獣が出現したという胡散臭い報告をもとにして「縁起がいいから、そろそろ即位すっかな」で即位しています。
逆に言うと正統性がなくても何十年も孫家の王朝として存続するほどに呉は政治基盤がしっかりしていたとも言えます。
合肥も夷陵も赤壁も受け身の戦いばかりな呉
そんなことはない呉も赤壁だって、合肥だって夷陵だって派手な戦いをしている。確かに、激戦をくぐりぬけてきた呉ですが、いずれも受け身の防衛戦争であり呉の方から積極的に仕掛けてきたものではないんですね。
荊州領有問題も、赤壁で一番大きな被害を出した呉から見れば劉備に分け前を求めるのは、まあ当然でしょう。第五次まで繰り返された合肥の戦いでも、元々は、この土地に曹操が劉馥を送り込んで無人の城だった合肥を強化したのが原因です。
合肥城の近くには巣湖があり、ここから支流を通じて長江に船を出せば楽々と建業にまで到着するわけで、魏にとっては呉攻略の拠点でした。
逆に呉がここを占領できれば、長江を通じて兵力や物資輸送が容易であり魏の領地に食い込む上でやはり重要拠点でした。
西暦252年孫権が崩御すると、魏の征東将軍胡遵は毌丘倹や王昶と共に呉討伐の軍勢を興しますが、この時に諸葛恪は巣湖と長江を繋ぐ袋小路の東興に孫権が造らせた堤防の強化工事をしています。この堤防を築く事で、大船団が長江を通って建業に来れないようにしていたのです。
三国一の水軍を持つ呉の専守防衛ぶり
特別展三国志にも、呉の文物として展示された貨客船の俑があったように、呉には三国一の水軍があり長江を利用した水運や、海外との交易用にも多量の艦船を保有していました。正史三国志呉主伝に引く江表伝にも、孫権が武昌で長安という巨大な戦艦を建造させ大風が吹いているのに、なんとしても羅州まで行けと無理強い。結局、部下の谷利が命令に背いて軍船を引き返し、沈没を免れたという逸話が出てきます。
しかし艦船というのは、どれだけ巨大でも陸地では使用できません。
また火薬のない当時は艦載砲などもないので、陸上施設を攻撃する能力はなくどこまでも長江周辺での戦いに特化したものでした。
ここにも、呉の専守防衛ぶりを見る事が出来ます。
魏に臣従し、曹丕と劉備の即位にも文句がない孫権
西暦229年に皇帝に即位した孫権ですが、それ以前には魏に臣従したり、劉備の即位にも、曹丕の禅譲にも特にクレームをつけた様子がありません。
もっとも、夷陵の戦いで劉備を破った後に、群臣が帝位に就くよう要請した時
「漢を守れなかったのに自分が即位とはしのびない・・」と
どこかの劉備さんを思い切り皮肉ったような言葉を残して即位を拒否しましたが、そもそも、呉が漢王朝を守る事を大義に行動なんかした事はないのです。まだ時期尚早というのを、漢の忠臣くさい言葉でコーティングしたのでしょう。
その分、魏が建国されようが蜀漢が出来ようが特に文句もありません。自分が天下統一を狙っていれば、ライバルの皇帝即位を不義として攻撃し大義名分にも出来るでしょうが、孫権はそんな事はしてないのです。
将来の事なんか知らんもんね、お気楽な孫権
また孫権は自分の政権安定に精一杯で将来については成り行きまかせだったという衝撃の記録もあります。
曹丕が広陵に進出してきた西暦224年、孫権は徐盛の献策に従い、長江沿いにハリボテ城を築いてなんとか曹丕を撃退させました。この頃、孫権は戦いの趨勢を占い師の趙達に占わせていましたが、趙達は「曹丕は退却しますが、呉は庚子の年に滅亡します」と衝撃の占い結果を出します。
孫権は、それをさすがに聞き逃せずにいつの庚子かと尋ねると趙達は五十八年後と答えます。すると孫権は安心し
「今日の事でさえ苦しみ悩んでいるのに、そんな将来の事まで知らん、子孫がする事だ」
三国志呉主伝に引く干宝「晋紀」
このように答えたと言われているのです。
五十八年後と言えば、確かに遠い将来ではありますが千年先じゃあるまいし、もう少し危機意識を持ってもおかしくないと思います。比較するものでもないでしょうが、諸葛亮の臨終間際に、その後継者の名前を幾人も聞きたがった蜀の重臣に比べても、なんともあっさりしたというか潔いというか・・・
三国志ライターkawausoの独り言
孫権の場合、中華統一の野望というよりも、豪族の乱立で学級崩壊気味な呉を、いかに自分が中心になってまとめるかにより力点が置かれていたようです。
赤壁の戦いの直前でも、張昭を筆頭に、ほとんどの重臣が降伏を勧めた時、孫権を戦いに踏み切らせたのは、トイレにまでついてきた魯粛の「私達は元々名士だから、呉が滅亡しても食うには困らないが、あなたの家は、そうではないでしょう?」という一言でした。
元々、大した家柄ではない孫家を残すには、呉を力でまとめる必要はありますがそこを越え、中華統一となると孫権にはピンとこない話だったのです。
孫権には中華統一の野望がなかった?この点についてのあなたの感想はなんですか?
参考文献:史実としての三国志 正史三国志
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