曹操のボディーガードは2名おり1人は典韋、もう1人は許褚です。
許褚は曹操が亡くなるまで仕えましたが、典韋は残念ながら建安2年(197年)に張繍に討たれてこの世を去りました。この時、曹操の息子の曹昴と甥の曹安民も戦死しているのですが、曹操は典韋の死を1番悲しみます。
典韋とはどんな人物だったのでしょうか?
今回は曹操を守って亡くなったボディーガード典韋について正史『三国志』をもとに解説します。
敵討ちで名を挙げる典韋
典韋は昔から漢気にあふれた人物でした。ある日、典韋は劉氏(女性か?)から敵討ちを頼まれます。相手は李永という人物。外では注意深く護衛を付けているので簡単には近づけません。考えた末に典韋は荷車に鶏と酒を積むと李永の屋敷を訪問。現在で例えるのなら宅配業者のフリをしたのです。
「すいません、お届け物です」という感じで来たので、何も知らない李永は普通に応対しました。典韋は持っていた短刀で李永とその妻を素早く刺殺。典韋はすぐに逃走を図りました。李永の屋敷は市場に近く大騒ぎになりますが、みんな典韋が恐ろしくて誰も近寄れません。
さすがにしばらく行くと、怖いもの知らずの奴らが追いついて来ましたが、典韋は全て返り討ちにします。この事件により典韋の名前は豪傑の間で知れ渡るようになりました。
曹操のボディーガードになる典韋
その後、典韋は張邈の軍に入隊します。張邈は袁紹の奔走の友(心を許し合って危機にかけつける仲間)であり、曹操の親友でもありました。
典韋は張邈軍の趙寵の部隊に配属されます。その当時、張邈軍の牙門旗(大将旗)を持てる人物がいませんでした。しかし、典韋はそれを片手で軽く持つことが出来たのです。『蒼天航路』にも上記のシーンはあります。
典韋はその後、曹操軍の夏侯惇の部隊に配属になりました。張邈は興平元年(194年)まで曹操と同盟関係だったので普通に考えたら、ただの配置換えでしょう。想像を膨らませたら典韋が張邈の主君としての器に見切りをつけて、曹操に将来を託したと考えるのもありかもしれません。
典韋は呂布との濮陽の戦いで活躍して曹操を守ることに成功します。この功績により、曹操のボディーガードに任命されました。ボディーガードは典韋以外にもおり、いずれも選りすぐりの精鋭でした。
泣いた曹操
建安2年(197年)に曹操は南陽の張繍を攻撃するために進軍しますが、張繍はあっさりと降伏します。だが、これは罠です。張繍はスキを見て攻撃を仕掛けるつもりでいました。さすがの張繍も宴会の席では手が出せませんでした。
典韋が武器を持ってにらんでいるので、怖くて近寄れなかったのです。仕方なく張繍はもう少し時が流れて、本当に油断したところを狙うことにします。10日以上経過すると、曹操の警護にも緩みが出ます。張繍はそこを襲撃しました。
曹操は急いで迎え撃ちますが、いきなりの襲撃で全く歯が立ちません。やむを得ず撤退することになりました。典韋や他のボディーガードは、曹操を逃がすために残ります。持っていた武器は破損して、敵から奪い、また壊れて、また奪い・・・・・・
周囲にいた典韋の部下は、みんな死んでいました。典韋は拳で突進しますが、敵は一斉に襲い掛かって彼を突き殺してしまいました。豪傑典韋はこの世を去りました。享年不明です。曹操は典韋の死を聞くと、悲しみにくれて、遺体を取り戻しにいかせました。
後年、馬車で典韋の戦死した場所を通るたびに祭祀を欠かさなかったそうです。様々な人間の死を見てきた曹操でしたが、豪傑典韋の死だけは後悔していたのでしょうね。
三国志ライター 晃の独り言 典韋はイケメン?
以上が曹操最初のボディーガードだった典韋についての解説でした。典韋はマンガ・ゲームでは、ごついゴリラのような人物として描かれることが多いです。ところが正史では「容貌が立派で筋力は人並み外れ優れ・・・・・・」と記述があります。ということは、典韋はイケメンだった可能性があります。
簡単に例えるのなら、最近流行った筋肉アニメの『ダンベル何キロ持てる?』の登場人物である「街雄鳴造」に似ていたと考えられます。
こんなバカな想像を膨らませるのは筆者ぐらいですかね?
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