諸葛攀とはどんな人?諸葛瞻と幼馴染で諸葛亮を父とした人物

2019年12月5日


 

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諸葛瑾と幼い頃の孔明

 

3世紀の中国において一世を風靡(ふうび)した諸葛一族、魏には諸葛誕(しょかつたん)が呉には諸葛瑾(しょかつきん)が、そして蜀には諸葛亮(しょかつりょう)がいて、その中でも諸葛瑾と諸葛亮は兄弟であり、国を越えて強い結びつきを持っていました。

諸葛攀

 

特に諸葛瑾は弟の諸葛亮に子孫がないのを案じて、次男の諸葛喬(しょかつきょう)を養子に出しています。そして、諸葛喬の子供として蜀で生まれたのが今回取り上げる諸葛攀(しょかつはん)でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛攀の父はいつ孔明の養子に入ったのか?

諸葛喬

 

諸葛攀の父である諸葛喬は、西暦203年の生まれです。彼がいつ頃、諸葛亮の養子に入ったのかは不明ですが、少なくとも諸葛亮が蜀に入った西暦214年以後ではないかと考えられます。また諸葛亮は181年生まれであり年齢から考えても四十を過ぎないと養子という感じにはならないと思うので、西暦221年以後が契機ではないでしょうか?

蜀の皇帝に即位した劉備

 

その頃には劉備(りゅうび)も帝位についていて、股肱(ここう)の臣を中心に閨閥(ねいばつ)を形成していく過程なので、諸葛亮にも是非子孫を求める声があったとも考えられます。

 

関羽を捕縛する馬忠

 

ただ、その頃は荊州における関羽(かんう)の敗死により蜀と呉の関係は険悪だったので、いかに兄弟の間柄でも養子を取る取らないは難しかったと推測され、実際に諸葛喬が蜀に入ったのは劉備の死後、223年以後ではないかと思います。

父・関羽とともに亡くなる関平

 

もし、223年なら諸葛喬はちょうど20歳であり、呉から蜀への長旅にも十分耐えられるだけの体力はあったでしょう。

 



諸葛喬が成人してから蜀に入った根拠

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

さて、三国志の時代の成人は礼記(らいき)によると現在の日本と同じで20歳でした。

 

二十而冠() 始学礼() 可以衣裘帛() 舞 惇行孝弟 博学不教 内而不出」

 

このように古代中国では20歳になると冠を被り学礼を開始し、皮衣や錦を着れるようになり、兄弟を教え導くなど権利と義務を負う事が分かります。さらに当時の成人には、もっと象徴的な意味がありました。

 

春秋榖梁経伝補注(しゅんじゅうこくりょうでんほちゅう)には、

幕末 魏呉蜀 書物

 

娶必先冠(めとるよりさきにかんむりす) 以夫婦之道(めおとのみちはそこから) 王教之本(これがおしえのもと) 不可以童子之道治之(こどもにはできない)

夏侯覇の妻は誰?

 

このようにあり、妻を(めと)る前に加冠(かかん)する、成人式を経る必要があったのです。また、成人を経ないと家を相続する事も叶わなかったので、諸葛亮の元へ行った諸葛喬は20歳にはなっていたか、間もなく20歳だったのだろうと推測します。そして、同時に結婚もしウヒョに励んだであろう事も間違いなく、本編の主人公である諸葛攀も間もなく生まれたのだと考えます。ここからようやく諸葛攀の話です。

 

はじめての漢王朝

 

諸葛瞻と同年代の甥

親バカな諸葛孔明

 

諸葛喬が妻を娶ってすぐに子供が出来たとすると、西暦225年位には諸葛攀が誕生した事になります。一方で子供を諦めていた諸葛亮も西暦227年、46歳にして一粒種諸葛瞻(しょかつせん)を授かります。この事実を考えると諸葛家では、養子の諸葛喬と父である諸葛亮が、ほぼ同時期に父になった事になり、大層目出度い雰囲気に包まれたのではないかと思います。

病死する諸葛喬

 

ただ、喜びは長くは続きませんで、諸葛攀の父、諸葛喬は子供が生まれて間もなく、西暦228年、25歳の若さで亡くなってしまうのです。諸葛攀は3歳で父を失う事になりました。そうなると当時の習慣から考えて、幼い諸葛攀は諸葛亮に養育される形になった事でしょう。当然、同居しているまだ赤ん坊の諸葛瞻とは自然に仲が良くなったのではないかと思われます。

 

諸葛攀が2歳年齢が上ですが、諸葛瞻と諸葛攀は同年代の(おい)と叔父として大きくなったと考えて、さほど間違いはないでしょう。

 

諸葛攀はどんな仕事をしていたのか?

諸葛亮の養育を受ける若き諸葛攀

 

諸葛攀については、成長して行護軍(ぎょうごぐん)翊武(よくぶ)将軍に昇進したとあります。翊武将軍は五品官ですが若くして任命されていますし、護軍は軍隊においての監察(かんさつ)の地位なので、父同様に優遇されていたのかも知れません。諸葛攀がどこに駐屯していたかは全く不明ですが、父の諸葛喬が駙馬都尉で漢中に駐屯していたようですから、そのまま父の後を継いで漢中の防備についたのでしょうか?もしかすると、244年の興勢(こうせい)の戦いにも従軍していたのかも

 

西暦253年以後、呉に帰還して亡くなる

諸葛恪と孫峻

 

かくして蜀で生まれ出世の階段を上っていた諸葛攀ですが、彼の運命がまた一転する出来事が起きます。それが253年に起きた孫峻(そんしゅん)のクーデターで、それにより諸葛恪(しょかつかく)は殺害され孫峻はこれに留まらず、諸葛恪の子孫も弟の諸葛融の子孫も皆殺しにします。

 

諸葛一族

 

これにより諸葛瑾の系統が絶えたので、諸葛攀は呉に帰還して、諸葛恪の家を継いで陽都侯(ようとこう)を継ぎましたが、まもなく若くして亡くなったようです。しかし、ここにはオカシイ点があります。諸葛攀には息子の諸葛顕(しょかつけん)がいたのですが、諸葛顕は蜀にそのまま残り、諸葛攀だけが呉に帰還しているのです。諸葛恪の家を継ぐならば、息子である顕を連れていかない道理がありません。

君主論18 kawausoさん

 

邪推(じゃすい)すれば、孫峻は諸葛恪と諸葛融の一族を滅ぼしただけでは安心せずに家を継がせてやると甘い顔をして諸葛攀をおびき出し病気に見せかけて殺したとも考えられます。さりとて、呉の実力者である孫峻の呼び出しを理由もなく拒否すると蜀呉同盟にヒビが入る恐れもあり、諸葛亮に養育された恩義を持つ攀は殺される事を覚悟で蜀を出る覚悟をしたのかも知れません。だからこそ血筋を残す為に諸葛攀は、敢えて息子の顕を蜀に残したとも取れるのです。

城 銅雀台

 

残された顕については記録が詳らかではありませんが蜀の滅亡後に降伏し、諸葛瞻の次男の諸葛京(しょかつけい)等と共に河東郡に移されたようなので、諸葛瑾から続く族脈は後世に繋がれたのかも知れません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

非常に地味な諸葛攀ですが、その生年を考えると諸葛瞻とほぼ同時期に誕生し、早くに父を亡くした事から諸葛亮を父とし諸葛瞻とは兄弟のように養育された可能性もあり、なかなか興味深いミステリアスな人物です。ただ、史書にそうだと書いているわけではないので、あくまでもkawausoの推測でしかないのが残念ですが・・

 

参考文献:正史三国志

 

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