郭嘉は曹操に仕えた軍師です。荀彧・程昱・賈詡と一緒に初期の曹操政権を支えた重要な幹部でした。
しかし、建安12年(207年)の烏丸討伐直後に38歳の若さでこの世を去りました。
曹操は建安13年(208年)の赤壁の戦いで負けた時に「郭嘉がいたらこんなことは無かった」と言ったようです。ところで郭嘉はどんな性格をしていたのでしょうか?今回は正史『三国志』をもとに、郭嘉の性格・品行について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「郭嘉 性格」
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郭嘉の性格・品行は?
正史『三国志』には郭嘉の具体的な性格・品行は何も記されていません。ただし正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『傅子』という史料によると、郭嘉は若い時から将来を見通す能力を持っており、ひそかに英傑と手を結んで俗世間と付きあいませんでした。
少し誇張が入っているので現代風に意訳します。要するに自分が気に入った相手としか付き合わなかったのでした。どうやら郭嘉は好き嫌いが、はっきりとしていたようです。袁紹に仕えるも、あっさりと見限ったのは具体的な事例でしょう。
具体例が無い直訴事件
こんな好き嫌いが激しい性格だったので、当然同僚からもケチを付けられます。郭嘉は生涯に同僚の陳羣から何度も品行が良くないと訴えられます。
陳羣は郭嘉と同じ豫洲潁川郡出身なので、2人は同郷関係です。
陳羣が郭嘉のどんな部分を訴え出たのか、具体例は残されていません。正史『三国志』の著者である陳寿が生きていた西晋(265年~316年)の時点で史料が無かったのでしょう。訴えられても郭嘉は平然とした態度である。その開き直った態度が同僚の反感を買っていたのかもしれません。
才能主義であった曹操は、もちろん郭嘉を罰することは出来ません。だが陳羣にだってプライドはあるはず・・・・・・そこで曹操は郭嘉の処罰は行わないが、陳羣も良く出来た公平な訴えであると誉めました。プライドの高い部下の間を取り持たないといけないので、主君はつらいですね。
豫洲潁川郡の人の気質は?
さて、郭嘉の出身地である豫洲潁川郡とはどんな土地なのでしょうか?彼の出身地である豫洲潁川郡は、戦国時代に韓非子や申不害などの法家を輩出している土地で有名です。
『史記』の中で司馬遷は豫洲潁川郡の人について「慎み深い」と表現しています。ところが、郭嘉の性格を考えたら、いまいち納得出来ません。司馬遷はどこの誰を見て慎み深いと思ったのでしょうか?
司馬遷とは違う見方も存在しました。後漢(25年~220年)初期に班固が執筆した『漢書』によると豫州潁川郡は、「官僚になることを名誉として、法律を好み、人々はケチであり、裁判が絶えないし、分家が行われる」と記されています。
これは豫洲潁川郡出身の官僚である朱贛のコメントです。地元出身者が言うことなので、リアリティがあります。なんとなくですが、郭嘉がひねくれた性格に育つ理由が分かる気がしました(笑)
三国志ライター 晃の独り言 訴訟はヤラセだった?
史料が少なすぎるので想像の域を出ないのですが、陳羣が郭嘉を訴えたことは、ヤラセだったのではないか、と筆者は考えています。もともと郭嘉は人付き合いが少なかったので、才能を知っている人があまりいませんでした。
同郷の陳羣と主君である曹操は郭嘉の名声を高めるためにわざと、郭嘉の品行の悪さをネタにした訴訟を起こしたのではないのでしょうか?
読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・狩野直禎「陳羣伝試論」(『東洋史研究』25-4 1967年)
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