戦国時代の特徴と言えば、下克上という言葉が思い浮かびます。言い換えれば弱肉強食、実力がある者が栄え、力なきものは滅びる。平たく言えば北斗の拳戦国時代風味でしょうか?しかし、そのような下克上イメージは最新の戦国研究により否定されつつあります。今回は、研究で明らかになった最新の下克上について解説しましょう。
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戦国下克上の定義を見てみる
下克上について書く前に、WEB辞書で下克上について調べてみました。すると
室町時代において、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒す風潮をいう。応仁の乱によって将軍の権威は失墜し、その無力が暴露するに及んで、守護大名の勃興と荘園制の崩壊を招き、実力がすべてを決定する時代が現出した。
その結果、将軍は管領に、守護は守護代に取って代られ、農民は一揆をもって支配階級に反抗するようになった。足利将軍が管領細川氏に、細川氏が家臣三好氏に、三好氏が家臣松永氏にそれぞれ権力を奪われたことや、
松永久秀が将軍足利義輝を襲って自殺させたのはその最も典型的な例であるが,この風潮も織田信長や豊臣秀吉の出現によって消滅した。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
このように、ブリタニカ国際大百科事典では、従来の下克上の説明がされています。しかし、この説明は的を得ていない部分があります。特に太字の部分を覚えておいてください。
戦国大名は室町将軍が大好き!
永禄二年(1559年)京都を支配していた三好長慶が、六角義賢と和睦すると、近江朽木に逃れていた将軍足利義輝は五年ぶりに京都に戻ってきます。上洛した義輝は自己の権威を見せつけるように、5人の戦国大名に上洛を命じました。
■西国
①尼子晴久
②毛利元就、隆元父子
■東国
③織田信長
④斎藤義龍
⑤上杉謙信
この中で、西国の尼子氏と毛利氏は、合戦中を理由に上洛しませんでしたが、東国の織田、斎藤、上杉は二月から四月に掛けて続々と上洛したのです。この時点で応仁の乱以後、権威が失墜し無力になった室町将軍という辞書の説明と矛盾しますが、それはひとまず置くとして、どうして、織田、斎藤、上杉が続々と上洛し足利義輝に拝謁したのかを考えてみましょう。
下克上を成し遂げた戦国大名は幕府の公認を求めた
足利義輝の上洛要請を受けて、永禄二年の二月から四月にかけて京に上ってきた三者にはある共通点が存在しました。それは、この三者が下克上を成し遂げたばかりという点です。
まず織田信長ですが、彼は尾張の守護代織田家の分家、織田弾正忠家という国衆の家に誕生し、尾張守護、斯波義銀を形式上の主君として頂いていました。しかし、永禄元年頃、その義銀が今川義元に通じて信長を裏切ったので怒って国外に追放します。さらに永禄二年には守護代の織田伊勢守をやはり国外に追放しています。
次に上杉謙信ですが、彼は元々越後守護代の長尾為景の次男だったものが、天文十七年に守護上杉定実の調停で兄、晴景に代わり守護代の地位に就きます。そして天文十九年、後見だった越後守護職、上杉定実が死去し上杉家が断絶すると、上洛して足利将軍の権威を背景に越後守護上杉家を継いでいます。
最後の斎藤義龍ですが、彼は父である斎藤道三に冷遇され、家督相続が危うくなったので、兄弟たちを殺害して、父道三に対して反旗を翻し、長良川の戦いで道三を破り敗死させます。そして義龍は動揺した美濃の国衆を落ち着かせる為、義輝に拝謁し、一色姓を賜ると共に、将軍側近である相伴衆に昇格しました。
御覧のように、織田、斎藤、上杉の三家は、元々、それほど高い家格ではない為に、その地位を安定させる為に足利義輝の権威を必要としたのです。また、彼らが上位者である守護の地位に成りあがったのは事実ですが、守護を殺すような手段は取らず追放に留めています。そればかりか、斯波義銀はその後、信長と和解し名を津川義近と改め、娘の一人を信長の弟、織田信包の長男に嫁がせて結びつきを強めました。つまり、戦国大名が室町幕府の権威を否定しているかというと、そうではなく、なんだかんだで室町時代の秩序を結構重視しているのです。
室町幕府崩壊の危機に織田、斎藤、上杉は上洛した
もう一つ、織田、斎藤、上杉が相次いで上洛した理由がありました。それは、足利義輝に代わり京都を実効支配した三好長慶が、室町幕府のいかなる代理者も置かずに、直接、天皇と結びつき幕府の権威が崩壊の危機に瀕していたからです。天文二十二年(1553年)から永禄元年(1558年)までの五年間、度重なる足利義輝の盟約破りに怒った三好長慶は、義輝を京都から追放し事実上の天下人として君臨していました。それまでも足利将軍が京都を追放される事はありましたが、五年間という長期に渡り、足利将軍が不在というのは戦国時代でも異常な事態だったのです。
さらに三好長慶は、朝廷との関係も良好であり、正親町天皇は、近江に逃げてしまい、ろくに政治にも関与できなくなった足利義輝より、三好長慶を信頼するようになります。特に、それまで必ず幕府の意向を聞いてから行っていた改元を義輝が金を出さないという理由で見限り、近江の義輝に知らせなかったのは大きな衝撃でした。
この永禄改元を後で知らされた足利義輝は立腹し改元に従わない意向を示し、京都を抑えた三好氏と足利義輝の対立は深刻の度合いを増します。特に正親町天皇が義輝を見限ってしまうと室町幕府終了チーン!になる可能性が高く、足利義輝に地位と所領を安堵してもらいたい新興戦国大名である織田、斎藤、上杉は危機意識を持ち矢継ぎ早の上洛に繋がったのです。彼らからすれば、「困るよぉ、三好っち、こっちにも生活があるんだからさぁ、将軍様とは仲良くしてよー」という切実な願いがあったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
戦国時代は確かに下克上の時代でしたが、下克上を成し遂げても、その地位を保障してくれる存在が必要でした。その為に重視されたのが室町将軍の権威だったのです。織田信長でさえ三好長慶が京都を支配して将軍権威が形骸化するのを恐れ、上洛して足利義輝の権威が残っているのを安心している程ですから、戦国時代の下克上は無秩序ではなく、室町時代の権威に依存するものであり、それは織田信長が15代将軍、足利義昭を京都から追放し、室町幕府が一応崩壊した1573年まで続くのです。
参考文献:松永久秀と下克上 室町の身分秩序を覆す
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