魏軍の二夏と言えば夏侯惇と夏侯淵です。
史実では、将軍というより文官として功績を残した夏侯惇と違い、最後まで前線に立ち続けた夏侯淵。三国志では、三日で五百里、六日で千里と神速が強調される夏侯淵ですが、本当の夏侯淵の凄さはそこではありません。
今回は、曹操が自分に並ぶ用兵巧者と評価した夏侯淵の補給の達人としての側面を解説します。
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少ない兵糧を効率的に回す夏侯淵
夏侯淵は、曹操が挙兵すると別府司馬・騎都尉として従い陳留と潁川太守を歴任、官渡の戦いでは行督軍校尉となります。そして曹操が袁紹を撃破すると、兗、豫、徐州の兵糧を管轄しました。
当時は、黄巾の騒乱や天変地異の後遺症が大きく兵糧は少ない状態で軍の展開が厳しい状態でしたが、夏侯淵は乏しい兵糧を効率的に輸送して各地の戦場に送り込み、その為に曹操軍の士気は高まり連戦連勝しました。
その後、于禁と共に昌豨を討った功績で、夏侯淵は典軍校尉に上り、近衛兵の責任者となります。勇猛一辺倒で定軍山でうっかり黄忠に討たれたせいで、曹操に有難くない評価をもらったせいで猪武者評価の夏侯淵ですが、実際には兵糧も込みで緻密な用兵が出来る繊細さと大胆さを兼ねる名将です。
補給の難しい関中の戦いで活躍する夏侯淵
西暦211年、潼関の戦いでは、夏侯淵は行征西護軍となって徐晃を支配下に置いて太原の賊を撃ち、攻めて二十余屯を降伏させ賊帥の商曜を斬ってその城を焼き払いました。次には渭南で戦い、次には朱霊を指揮下において隃糜・洴氐を平定し、曹操と安定で合同して関中十部の楊秋を降伏させます。
夏侯淵の補給に対する綿密さは曹操が高く評価する所になり、曹操が鄴に帰還すると、夏侯淵は行護軍将軍となり、朱霊、路招を指揮下に入れます。
長安は西域への玄関口であり、その先には、山脈と砂漠、遊牧を生業とする人が多く耕作地が少ない、兵糧には乏しい場所であり、そこに夏侯淵が大将として配置されたのは、並外れた補給能力と複数の戦場の状況を瞬時に把握し、優先順位をつけられる夏侯淵の才能を見込んだからです。
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悪手では勝利しない夏侯淵
潼関で敗れた馬超は、再度決起して涼州刺史韋康を冀城に包囲、夏侯淵は韋康救援に向かいますが、その前に冀城は陥落。それで夏侯淵は引き返しますが、途中で馬超が逆襲に来たので迎え撃ちます。しかし勝機が薄く配下の洴氐も叛いたので、これを潮時と長安に帰還します。
この一時の勝敗に固執せずに、勝つべき時に勝つまで冷静に退けるというのが夏侯淵の名将たる所以です。悪手で無理に得た勝利など、次にはどう転がるか分からず、褒められたものではありません。
西暦214年、趙衢と尹奉が馬超を討とうと謀り、鹵城で姜敍が兵を起こしてこれに応じました。趙衢と尹奉が馬超に姜敍を討つように進言すると馬超はあっさりと応じて城を出たので趙衢と尹奉は冀城を閉じ馬超の妻子を殺害します。
即断で馬超を討つ決断をする
帰る場所が消えた馬超は祁山を包囲、姜敍は急いで長安に救援を求めますが、馬超が恐い諸将は、いや、こういう重大事は、殿に聞いた上でないと、、と鄴まで伺いを立てようとしますが、夏侯淵はこれを一喝します。
「殿は鄴にいて、往復4千里、返事が来る頃には姜敍は血祭りにされよう、この緊急事態に役には立たん」
こうして独断で張郃に歩騎5千を与えて、先発させ陳倉から狄道に向かわせ、夏侯淵は督糧として後に続きます。張郃が渭水の上に出ると、馬超が氐・羌数千を率いて張郃を攻撃しますが、交戦前に馬超が敗走。張郃は進軍し馬超軍の器械を収容し、夏侯淵が到着した時には周辺は全て降っていました。
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