滝川一益とはどんな人?清須会議に間にあっても役に立たなかった

2020年6月5日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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州会議の参加に間に合わなかった滝川一益

 

映画清須会議(きよすかいぎ)で、結局清須城の会議に間に合わなかった滝川一益(たきがわかずます)、コミカルな演技で笑わせてもらいましたが、リアルな滝川一益と言うと知らない人が多いのではないでしょうか?そこで今回は最新研究から、史実の滝川一益について解説します。

 

大永五年に誕生

滝川一益

 

滝川一益は大永(だいえい)5年(1525年)に滝川一勝(たきがわかずかつ)(滝川資清(たきがわすけきよ))の子として生まれました。父は、近江国甲賀郡(おうみのくにこうがぐん)の国人とも伝わるので、忍者だったのではないかとも言われますが、俗説で確かな事は分かりません。

 

織田信長

 

ただ、織田信長に仕えたのは早く、信長公記によると天文年間(てんもんねんかん)後期に尾張の盆踊りで施餓鬼役(せがきやく)を務めた滝川左近充(たきがわさこんじゅう)が一益の事であるようです。この事から織田家譜代の臣と見做す事もあります。

 

伊勢北畠氏攻略に活躍

安土城 織田信長が作らせた城

 

初期の滝川一益の活動の舞台は伊勢(いせ)でした。

永禄(えいろく)11年(1568年)2月、伊勢の有力豪族の長野氏に、信長の弟の織田信包(おだのぶかね)を婿養子に入れる事に尽力している様子が見られます。これは、伊勢の戦国大名北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)親子攻略の布石でした。

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

同年の8月には一益は、北畠氏の居城、大河内城包囲に参陣、信長は大河内城の焼き討ちを命じますが、北畠氏は信長の次男茶筅(ちゃせん)(織田信雄(おだのぶかつ))を養子に迎える事を降伏条件にしてきたので和睦に応じました。10月には、津田一安と共に大河内城を受け取り、一益は安濃津(あのつ)、渋見(しぶみ)、木造(きづくり)の3つの城を預けられ城持ち武将になります。

 

はじめての戦国時代

 

拡大していく活動範囲

織田信長から信頼される滝川一益

 

以後の一益は、幼い北畠信雄を補佐して、伊賀国の守護仁木氏(にきし)を降伏させるなど、伊勢を中心に活動していきますが、そこに固定したわけでもなく、信長の上洛にあわせ、山城西岡の国衆、革嶋氏(かわしまし)の取次役を務めたりするなど、忍者のように各地を横断しています。

 

佐久間信盛

 

元亀4年(1573年)将軍足利義昭挙兵に際しては、佐久間信盛(さくまのぶもり)など信長重臣と連署で、和睦を請う起請文を義昭周辺と交わしていて、宿老のような扱いでした。

明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

同年には、浅井氏攻めに参陣、朝倉氏滅亡後は、明智光秀(あけちみつひで)や羽柴秀吉(はしばひでよし)と共に一時は越前支配を担当しました。

 

一向一揆(農民)

 

天正元年(1573年)9月と翌年7月の伊勢長島一向一揆攻めに参陣し、一向一揆の殲滅後、長島城に入城しています。

 

越前一向一揆平定戦

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

天正3年の越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)平定戦では、北畠信雄(きたばたけのぶかつ)(茶筅)、神戸信孝(かんべのぶたか)、長野信包(ながののぶかね)の補佐役として、津田一安(つだかずやす)、原田直政(はらだなおまさ)と共に派遣されます。津田一安、原田直政共に北畠氏の関係者である事から、滝川一益は、織田信忠に次ぐ地位にある北畠信雄の補佐として、同じく北畠領の伊勢大湊の支配にも関与していて、織田家宿老として織田家の血縁者から絶大な信頼を寄せられていたと考えられます。

 

一益は、近江甲賀郡の支配にも関わり、天正3年の瀬田橋欄干(せたはしらんかん)の造立のために信長直属衆を除く甲賀中の大工の派遣を命じられ、同地の神社間の相論(そうろん)(裁判)の裁定にも加わっています。後の天正伊賀の乱でも、一益は出陣していた事から甲賀については、浅からぬ縁があったようです。

明智光秀(麒麟がくる)

 

大和についても伊勢に近い事から、北畠氏従属国衆、沢氏(さわし)の指南役を務め、原田直政戦死後には、大和一国の差出(さしだし)(自己申告的な検地)を明智光秀と担当しました。

武田勝頼を滅ぼし国持ち大名へ

武田勝頼

 

このように伊勢周辺の実力者として、織田家の宿老として順調に出世していた一益ですが、より大きな仕事が舞い込んでくる事になります。天正8年(1580年)3月、北条氏政(ほうじょううじまさ)は二度目の使者を派遣して織田信長への従属を申し出ます。この時に、佐久間信盛、滝川一益、武井夕庵(たけいせきあん)が関東衆への取次役に命じられ、関東衆の攻略の尖兵としての仕事に従事し始めます。

足軽b-モブ

 

翌天正9年10月、一益は徳川氏従属国衆の奥平信光に信濃国境への砦構築を命じ、武田勝頼攻略の準備に入りました。天正10年、一益は河尻秀隆(かわじりひでたか)と共に武田領に侵攻し、3月11日、甲斐田野(甲州市)で武田勝頼主従の首を獲る事に成功。論功行賞により、上野一国と信濃佐久(さく)・小県(ちいさがた)郡を与えられます。かくして、滝川一益は苦節30年以上で、国持ち大名へと昇進したのです。

 

東国警固として関東一円に睨みを効かす

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

滝川一益は、厩橋(うまやばし)(前橋市)を拠点に東国警固(とうごくけいこ)という任に就きました。これは加賀で柴田勝家(しばたかついえ)が任じられた北国警固と同じで、関東と東北の諸大名に対して、織田政権への服属を呼びかける役割を与えられた事を意味しています。

西遊記巻物 書物_書類

 

そればかりではなく一益には、関東や東北方面の大名に対する外交権も与えられました。織田家に服属する大名は、一益を通して織田家に従属するので、軍事統率権すら一益は握る事になります。これにより、関東・東北の大名までが、続々と一益に使者を派遣して、その支配下に入るようになります。

北条氏康

 

この象徴的な出来事が、北条氏が奪取していた下野小山氏の居城祇園城(ぎおんじょう)の返還でした。信長の総無事令(そうぶじれい)(私闘禁止)の元、一益は氏政に圧力を掛け、それに抗しきれなくなった北条氏は祇園城を一益に返却し、それを一益は小山氏に返還したのです。

 

こうしてみると、一益は信長の威勢を借りて、関東で好き放題にしていたように見えますが、一方で有力な関東諸侯の面子も立て、北条氏が形式的な主君として奉戴していた古河公方(こがくぼう)、足利義氏(あしかがよしうじ)とその重臣、梁田氏(やなだし)については、敢えて服属を求める使者を出さないなど、従来の支配勢力に対する配慮も見せています。

 

本能寺の変での転落

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

しかし、一益の栄光は本能寺の変で織田信長が明智光秀(あけちみつひで)に討たれた事で一気に転落に向かいます。東国警固の力は信長政権の盤石さがないと維持できない不安定なものでした。

 

一益は、信長横死を一部の関東の有力大名以外には秘密にしつつ、国衆の離反を阻止しようとしますが、手の平を返した北条氏直に神流川の戦いで敗北、領国放棄を決意します。

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

この際に、佐久、小県国衆から人質を取り直して帰路の安全を計ろうとしますが、信濃国衆の木曾義昌(きそよしまさ)に足止めを喰らい、取った人質を返還。やっと木曾領を通してもらえますが、この頃には、清須会議はすでに終わっていました。

内容に納得がいかないkawauso様

 

滝川一益は、その後の賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いでは、柴田勝家についている事から清須会議に間に合えば、柴田勝家に有利な行動をしたと考えがちですが、信長に守るように命じられた東国警固には失敗し、上野や佐久、小県まで失い北伊勢五郡しか所有していない一益に政治的な発言力はなく、仮に間に合っても役には立たなかったでしょう。

 

清須会議後に剃髪隠居

清須会議b 丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興

 

落ち目になった一益の行動はどんどん裏目に出ます。清洲会議後、織田信孝を後援する柴田勝家と羽柴秀吉の対立では、一益は、元々は織田信雄の補佐役でしたが、ここでは柴田勝家に付き、北伊勢の諸城を攻略を担当します。

 

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

一益は奮闘し、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにして頑張りますが、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れて自決、織田信孝も自害したことで一益は孤立。

 

それでも一益は長島城で籠城して孤軍奮闘しますが7月には秀吉に降伏してしまいます。

丹羽長秀

 

これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪(ていはつ)、朝山日乗(あさやまにちじょう)の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居(ちっきょ)しました。その後、北伊勢五郡は織田信雄のものになります。

 

小牧長久手で奮戦するも援軍を待てず敗北

軍議(日本史)モブa

 

天正12年(1584年)の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは一益は秀吉方につき、信雄方の九鬼嘉隆(くきよしたか)と前田長定(まえだながさだ)を調略し伊勢白子浦(いせしらこうら)から蟹江浦(かにえうら)に3千人の兵を揚陸。過去に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰(さくまのぶたつ)を追放し、更に、下市場城(しもいちばじょう)、前田城を占拠します。

 

当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間に位置する重要拠点であり、一益久々大手柄のよ・か・んでしたが、大野城の攻略は失敗。巻き返した家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されました。

炎上する城a(モブ)

 

羽柴秀吉は、一益救援に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集め7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していた模様で、ここが踏ん張りどころと、一益は半月以上粘ったものの、援軍到着まで待てず、7月3日に力尽きて開城。さらに、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ一益は死ぬ思いで北伊勢に逃れる散々な目に遭います。

豊臣秀吉 戦国時代2

 

7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられ、無一文だけは辛うじて免れます。しかし、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長(はしばひでなか)に身柄を預けられる事になりました。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

以後は戦働きは無くなり、織田信雄との和睦交渉に参加した後、北条氏との調停をしつつ、天正14年に62歳で病死しました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

長い下積み経験を経て、北伊勢攻略から着々と手柄を積み重ね、ついには関東管領クラスの大きな権力を握った滝川一益ですが、本能寺の変が全てをふいにしました。佐々成政同様に、明智光秀に人生を狂わされた一人と言えるでしょう。

 

おまけに清須会議後には、羽柴秀吉を軽んじて柴田勝家につき、全ての所領を失い、剃髪して隠居に追い込まれますが、次の小牧・長久手では敗れはしたものの、秀吉から所領3千石を得て、何とか没落して惨めに死す事だけは回避できました。でも、かつての東国警固の輝きに比べると、没落したという印象が否めないですね。

 

参考文献:歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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