映画清須会議で、結局清須城の会議に間に合わなかった滝川一益、コミカルな演技で笑わせてもらいましたが、リアルな滝川一益と言うと知らない人が多いのではないでしょうか?そこで今回は最新研究から、史実の滝川一益について解説します。
この記事の目次
大永五年に誕生
滝川一益は大永5年(1525年)に滝川一勝(滝川資清)の子として生まれました。父は、近江国甲賀郡の国人とも伝わるので、忍者だったのではないかとも言われますが、俗説で確かな事は分かりません。
ただ、織田信長に仕えたのは早く、信長公記によると天文年間後期に尾張の盆踊りで施餓鬼役を務めた滝川左近充が一益の事であるようです。この事から織田家譜代の臣と見做す事もあります。
伊勢北畠氏攻略に活躍
初期の滝川一益の活動の舞台は伊勢でした。
永禄11年(1568年)2月、伊勢の有力豪族の長野氏に、信長の弟の織田信包を婿養子に入れる事に尽力している様子が見られます。これは、伊勢の戦国大名北畠具教・具房親子攻略の布石でした。
同年の8月には一益は、北畠氏の居城、大河内城包囲に参陣、信長は大河内城の焼き討ちを命じますが、北畠氏は信長の次男茶筅(織田信雄)を養子に迎える事を降伏条件にしてきたので和睦に応じました。10月には、津田一安と共に大河内城を受け取り、一益は安濃津、渋見、木造の3つの城を預けられ城持ち武将になります。
拡大していく活動範囲
以後の一益は、幼い北畠信雄を補佐して、伊賀国の守護仁木氏を降伏させるなど、伊勢を中心に活動していきますが、そこに固定したわけでもなく、信長の上洛にあわせ、山城西岡の国衆、革嶋氏の取次役を務めたりするなど、忍者のように各地を横断しています。
元亀4年(1573年)将軍足利義昭挙兵に際しては、佐久間信盛など信長重臣と連署で、和睦を請う起請文を義昭周辺と交わしていて、宿老のような扱いでした。
同年には、浅井氏攻めに参陣、朝倉氏滅亡後は、明智光秀や羽柴秀吉と共に一時は越前支配を担当しました。
天正元年(1573年)9月と翌年7月の伊勢長島一向一揆攻めに参陣し、一向一揆の殲滅後、長島城に入城しています。
越前一向一揆平定戦
天正3年の越前一向一揆平定戦では、北畠信雄(茶筅)、神戸信孝、長野信包の補佐役として、津田一安、原田直政と共に派遣されます。津田一安、原田直政共に北畠氏の関係者である事から、滝川一益は、織田信忠に次ぐ地位にある北畠信雄の補佐として、同じく北畠領の伊勢大湊の支配にも関与していて、織田家宿老として織田家の血縁者から絶大な信頼を寄せられていたと考えられます。
一益は、近江甲賀郡の支配にも関わり、天正3年の瀬田橋欄干の造立のために信長直属衆を除く甲賀中の大工の派遣を命じられ、同地の神社間の相論(裁判)の裁定にも加わっています。後の天正伊賀の乱でも、一益は出陣していた事から甲賀については、浅からぬ縁があったようです。
大和についても伊勢に近い事から、北畠氏従属国衆、沢氏の指南役を務め、原田直政戦死後には、大和一国の差出(自己申告的な検地)を明智光秀と担当しました。
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