蜀の五虎大将軍の1人趙雲は、字を子龍と言い三国志を知る人は誰もが知る名将です。そして、ただ強いだけではなく主君劉備や上司の諸葛亮に忠誠を尽くし職場の人間関係のトラブルもない公私ともに満点な人物でもあります。
チート武将の趙雲ですが、それに加えて経済感覚ががっちりマンデーでもありました。今回は、蜀のお財布にも優しい趙雲の活躍を趙雲伝と趙雲別伝から解説します。
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箕谷の戦いで見せた見事な撤退戦
西暦227年、趙雲は第一次北伐に従軍して漢中に駐屯します。趙雲の役割は諸葛亮の本隊が祁山を攻める囮として、斜谷道を通って魏の大将軍曹真の軍勢とぶつかり、いかにも蜀の本隊のように振る舞い諸葛亮の本隊から気を逸らす事でした。
趙雲は副将の鄧芝と弱兵で、曹真の強兵と苦しい戦いを続け、箕谷でついに防げなくなり退却に転じますが、軍兵を収斂して堅く守り大敗には至りませんでした。やがて北伐は失敗、趙雲は地位を格下げされ、鎮東将軍から鎮軍将軍になります。
降格処分でも愚痴を言わない趙雲
確かに敗戦は敗戦ですが、第一次北伐は馬謖のせいで、もっと言うと諸葛孔明の人選ミスのせいで敗北したのであり、さらには趙雲の兵は弱兵だった事を考えると一歩間違うと曹真の大軍と強兵により全滅の可能性もありました。
負け戦なので昇進はないとしても、格下げは可哀想だと思いますが趙雲はグチグチ文句を言う事なく降格処分を甘んじて受けています。しかし、あまり目立ちませんが、ここで趙雲はがっちりマンデーな経済的な貢献をしていた事が趙雲別伝から分るのです。
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蜀の台所事情まで配慮した趙雲
退却した北伐軍を点検した時、諸葛亮は箕谷の趙雲・鄧芝軍が軍需物資をあまり失っていない事に気づきました。
そこで、鄧芝に
「街亭では敗北で混乱し、軍は相互に連絡が取れない状態だったが、箕谷の軍は当初から軍需物資を失っていないようだ。どうしてか?」このように質問しました。
すると鄧芝は
「趙雲が自分で殿を勤めて曹真の追撃を防ぎ、軍資や支給品はほぼ捨てずに安全に退却する事が出来ました。だからこそ、我が軍の将兵は物資を失わずに済んだのです」
このように答えて趙雲の健闘に賞賛を惜しみませんでした。
軍資金も全て返納する趙雲
さらに趙雲は物資調達の為に蜀の絹も余分に持っていましたが、戦争が終わったので国庫に返納しようとしました。諸葛亮は善戦したのに降格処分にしてしまった趙雲への申し訳なさもあったのか、返納には及ばないので将兵で分けるように命じますが、
「敗戦しているというのに褒美を受け取るわけには参りません。これらの絹は国庫に納めて下さい。そして、冬賜(冬のボーナス)に当てればいいではありませんか?」
孔明は、趙雲の経済感覚の優れているのに感心しました。でもこの時代から冬のボーナスって存在したんですね。
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