織田信長の華麗な生涯の中でも、特に有名な、桶狭間の戦い。一般には、「京都への上洛を目指して進軍中だった今川義元の大軍を、織田信長がわずかな手勢を引き連れて奇襲し、大将である今川義元の首を取って大逆転した合戦」と言われています。
無名時代の織田信長が、天下取り直前だった今川義元を討ち取る大金星をあげたことで、一躍その名を天下に知らしめ、織田家の家臣団からも信頼も集めることができたというのが、様々なドラマや小説で描かれている展開となります。
ところが、歴史というものはとにかく、「新解釈」がどんどん出てくるもの。この桶狭間の戦いについても、最近の研究では、新しい見解がどんどん付け加えられています。その中には、桶狭間における信長の勝因として一般に知られている、
・今川義元は京都への上洛をゴールにしていたため、破格の大軍を率いていた
・織田家の領土はただの通過点とみなしており、大軍で一気に粉砕するつもりでいたため、信長の行動に対しては油断していた
・信長はわずかな手勢を率いて奇襲をかけ、今川義元の本陣を攻撃した
・幸運にも支えられた奇跡の逆転勝利となった
という通説の根底を覆すような新説も含まれているのです!
この記事の目次
そもそも今川義元は油断しておらず、信長潰しのガチ勝負を賭けてきていた!
まず「今川義元は大軍を率いて上洛中だった」という定説を検討しましょう。桶狭間の戦いに参加した兵力は、これまた諸説ありますが、どうやら今川義元側は2万程度の軍勢だったようです。これは確かに、大軍と言えるでしょう。
ですが同時代の日本における合戦を見ると、
・川中島の戦いでの、武田信玄の軍が2万程度とされている
・それに対抗した川中島の戦いでの上杉謙信の軍も2万程度とされている
・毛利元就の躍進の原動となった厳島合戦での、陶晴賢の軍も2万程度とされている
ということで、今川義元ほどの名門の戦国大名であれば、2万人はひとつの合戦に動員できる兵力としては常識的だったという見方もできるのです。
これの何が問題かというと
・ひとつの合戦への動員数としては総力を挙げている
・だが破格の兵力を準備したとまではいえない規模
・京都に上洛して天下を狙う野心があったにしては心もとな
ということです。
今川義元の軍事行動は、もしかすると天下取りという大掛かりな構想によるものではなく、「将来の禍根になりそうな織田家を、全力で潰しておく」という現実的な目標を据えてのものだった可能性があるのです。
だとすると、「織田信長のことは眼中になく油断していた」という定説とはずいぶん違う印象になります。この時の今川義元の目標は信長潰しだったということで、むしろ本気の勝負で挑んできていた可能性が出てくるからです。
今川家は織田家に苦汁を飲まされていた?尾張国をめぐる壮絶な支配権争い!
ここで注目すべきことは、今川家は現代でいう静岡県、織田家は現代でいう愛知県の半分(尾張国)を領土としていたのですが、当時の織田家はまだ尾張国を統一するための激しい争いの中にあったということ。
そして尾張国の支配をめぐる事実上の頂上対決が、信長の父の織田信秀時代から、既に「織田家VS今川家」の抗争となっていたということです。そもそも現代の名古屋城(当時の呼び方は「那古野城」)自体、もともと今川家の拠点だったものを、織田信秀が奪い取ったものなのです。
・今川家としては、もともと、尾張国も勢力圏の一部とみなしていた
・そこに織田信秀という英雄が登場して尾張国の統一に向けて快進撃を始めたため、危機感をもっていた
・その信秀が死んで若い息子(信長)が跡を継いだと聞き、織田家を潰して尾張国を取り返すチャンスと見た
これが、今川義元が油断していたどころか、信長潰しを狙って本気で仕掛けてきていたと推測できる背景です。
定説をくつがえすもうひとつの視点:「織田信長はめちゃくちゃ強い」と既に近隣に評判だった?
いっぽうで、信長の軍勢を見てみましょう。この桶狭間の合戦で信長が率いた兵力は、2,000人程度といわれています。もっとも、これは今川義元の本陣襲撃の際に引き連れていた本隊が2,000人という意味であり、織田家の総兵力は5,000人程度存在したとされています。攻める側が20,000で、守る側が5,000人。たしかに今川氏有利ですが、それほど決定的な兵力差というわけでもありません。
まして当時の織田信長は、既に尾張国内の統一戦争で数々の勝利をあげていました。伝説となっている「若いころから奇抜な恰好をして狩りや乗馬をしていた」という話も、自分と同世代の少年たちと常に山野を駆け巡って、信頼のできる手飼いの精鋭部隊を育てていたという解釈もできます。
そしてこの時期、かの美濃国の斎藤道三も織田信長の才能を認めており、「美濃国はやがてあの男のものになるかもしれない」と周囲に話していたという話もあります。あのマムシの道三すら認めている男ということで、今川義元も十分に信長を警戒していた可能性が高いのです。
まとめ:織田信長軍は桶狭間の合戦前から既に最強レベルの精鋭に育っていた?
その斎藤道三を驚かせたのは、正徳寺の会見の際に、信長が引き連れてきた兵士がきらびやかな甲冑で着飾り、鉄砲をズラリ装備し、整然と行進していたということ。
「よく訓練されている上に、武装もよいものをそろえている!」と道三を感心させたようです。
戦国史ライターYASHIROの独り言
一流の戦国大名である斎藤道三をすら驚かせたという精鋭部隊を、既に信長が完成させていたとしたら?
今川義元は油断どころか、「なんとか信長を若者のうちに潰しておかないと、おそろしい存在になる」という恐怖から、思い切った総力戦を仕掛けてきていたのだとしたら?
奇跡の逆転劇と伝えられる桶狭間の合戦の印象はガラリとかわり、旧世代に属する今川義元が、新世代の天才たる信長に挑んだものの、見事に返り討ちにあった、という見え方になってきます。この解釈、これはこれで「信長はおそろしい男だった」ということになり、信長ファンの人にも魅力ある仮説となっているのではないでしょうか?
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