曹嵩とはどんな人?本当は曹操と仲が悪かった!

2020年9月21日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

曹嵩

 

曹嵩(そうすう)は、曹操の父にあたる人物です。元々は夏侯氏(かこうし)でしたが、宦官の曹騰(そうとう)の養子となり莫大な財産を受け継ぎました。

 

曹操

 

そして、曹操が生まれる事になるのですが、魏を起こした曹操の父は、非常に史料が乏しく謎だらけなのです。

 

曹操に招かれウキウキする曹嵩

 

しかし、その少ない史料を調べて見ると従来とは異なる曹嵩と曹操の関係が見えてきたり、こなかったりしているのです。

 

夏侯氏の家に生まれ大宦官曹騰の養子になる

 

曹嵩は字を巨高(きょこう)と言い、元々は夏侯氏の出身で夏侯惇(かこうとん)の叔父であり、曹操は夏侯惇とは従兄弟にあたると言われています。性格は親孝行で、慎ましかったので宦官の曹騰が見込んで養子としました。

 

その後、官途に就き司隷校尉(しれいこうい)となり霊帝により大司農(だいしのう)、大鴻臚(だいこうろ)に抜擢され、西暦187年、崔烈(さいれつ)と交代し三公の太尉となっていますが、翌年には辞任しています。

宋銭 お金と紙幣

 

キャリアを積み重ねているように見える曹嵩ですが、目立った事績は何もありません。また、この頃の官職は全て売官の対象なので、曹嵩が有能で顕職を歴任したとは考えにくく、売官ゲームに参加し官職を転売して利殖に勤しんでいただけなのかも知れません。

 

曹操との逸話

魏の曹操孟徳

 

曹操と曹嵩についての逸話はほとんど伝わってなく、これから紹介する曹瞞伝(そうまんでん)によるものが唯一です。

 

曹操は若い頃、鷹や狗での狩猟を好み、放蕩(ほうとう)三昧で節度がなく、口うるさい叔父がよく曹嵩に告げ口していた。

曹操は、口うるさい叔父を黙らせようと思い、道で叔父に遭うや表情を硬直させて口を歪めて動かなくなった。

叔父が怪しんで何をしている?と問うと、「いきなり悪風(おふう)に当たりました」と答えました。

驚いた叔父が曹操が中風(ちゅうぶ)に罹ったとして、曹嵩を呼んでくると曹操は平然と歩いている。

 

「お前、中風になったのではないのか?」と曹嵩が問うと、曹操は

「中風ではありません。叔父上は私が嫌いなので嘘をついたのでしょう」と答えた。

これから曹嵩は叔父の言を信用しなくなり、曹操は増々、放蕩三昧をするようになった。

 

 

曹操と曹嵩の逸話は、たったこれだけですが、息子の事を信じたい親バカでお人好しな曹嵩と抜け目のない嘘をつく、狡猾な少年曹操の対比が出ています。

 

曹操孟徳

 

曹嵩は金権政治家だったのか?

餓えた農民(水滸伝)

 

後漢末期、霊帝は足りない財源を朝廷の官職を売る、いわゆる売官をして荒稼ぎをして増やした事が知られています。この金権政治の風潮の中で、曹嵩も官職を買って荒稼ぎをしていたように思いますが、どうも話はそう単純ではないようです。

 

財宝を持ち歩いて移動してしまった曹嵩

 

それは何故か?実は霊帝に官職を与えられると、官人は辞退する事が許されなかったからです。どうしてもお金がない人は借金をして(霊帝はお金も貸しました)官職を買い赴任先で民から税を搾り取り、損を埋め合わせていました。

 

例えば、清廉(せいれん)で知られた河内(かだい)の司馬直(しばちょく)は、清廉の故に300万銭の低価格で官職を売られましたが、その300万銭もないとして拒否。さらに赴任を強要されると、民に負担は掛けられないと激しく諫奏した上で孟津から川に身を投げて死んでいます。

 

つまり、収奪して民をイジメないと自分が破産するのが売官の反面の真実でした。

 

西洋が好きな霊帝

 

この背景を見ると曹嵩は、霊帝に大司農、大鴻臚に抜擢された上に、崔烈と交代で太尉になったとされているので、全て霊帝からの任命であり、太尉は銭1億銭と記録されています。

 

十常侍(宦官)

 

太尉については後漢書宦者列伝では、1億銭と宦官に賄賂を贈りゲットしたとありますが、それ以外の大司農、大鴻臚については何も書いていません。もしかして、太尉以外は霊帝による有難迷惑の押し付け売官だったかも知れません。

 

老齢で引退し礁に帰るが董卓の乱で瑯邪郡に逃れる

霊帝

 

太尉になってほどなく曹嵩は官を辞して故郷の礁に隠居します。あるいは、霊帝の売官ゲームに付き合いきれなくなったのかも知れません。元々、温厚で篤実以外に取り柄がない人なら、当時の腐敗した宮廷は苦痛でしかなかったと思います。

 

董卓

 

しかし、まもなく董卓が暴政を敷くと、戦乱を避けより安全な徐州の瑯邪郡(ろうやぐん)に一族で逃れます。当時の徐州は、陶謙が実力で統治していて洛陽に比較すればずっと安全だったのでしょう。

 

進軍する兵士a(モブ用)

 

その後、曹操が兗州牧(えんしゅうぼく)になり、曹嵩と家族を迎える為に泰山太守応劭(おうしょう)に命じて兵を出し、曹嵩の一族は瑯邪郡から泰山郡に移動して待機していました。

陶謙配下に襲われ死亡

自称皇帝闕宣のイケイケ人生 陶謙、曹操

 

しかし陶謙は、どういうわけか数千の兵を派遣して曹嵩を殺害しようとしました。曹嵩の家族は、てっきり応劭の迎えだと信じて何も備えないでいると、陶謙の兵は曹操の弟の曹徳を殺害します。

 

陶謙軍に襲われ財宝を盗まれ亡くなった曹嵩

 

異変を察知した曹嵩は、裏手の垣を砕いて妾(めかけ)を脱出させようとしますが、妾は太っていて出る事が出来ません。曹嵩はやむなく、厠に逃れていましたが、間もなく妾と共に発見されて殺害、一家は全て滅びました。ようやく到着した応劭は、曹操の怒りを恐れて官を捨てて逃げ、袁紹に投降したそうです。

兵糧を運ぶ兵士

 

また呉書では、曹嵩の財産は馬車で百余両あり、危険なので陶謙が都尉の張闓(ちょうがい)に命じて200騎で護送していましたが、張闓は財宝に目がくらんで曹嵩一家を泰山の華県(かけん)と費県(ひけん)の間で殺害し、財宝を奪って淮南に逃げたとあります。

 

ブチ切れる曹操

 

曹操は、陶謙のミスだと怒り兗州から出兵、徐州虐殺の引金になりました。

 

曹操と行動を共にしなかった曹嵩

勘違いで殺めてしまう曹操

 

ここまでを読むと、曹操は放蕩者の親不孝だったものが、やがて群雄になり若い頃の罪滅ぼしに曹嵩を兗州に迎えに来たものが、陶謙か陶謙の部下の張闓に殺害され親孝行は叶わなかった、なんと悲劇的な最期という感じになります。しかし後漢書宦者列伝によると、そもそも曹嵩は曹操が挙兵した時に同行を嫌がり、一族を連れて瑯邪郡に逃げたと書かれています。

曹操と夏侯惇

 

さらに曹嵩は大変な資産家にもかかわらず、曹操の挙兵資金を出していません。武帝紀では、曹操は家財道具を処分して挙兵資金を作ったとあり、魏晋世語では衛茲(えいじ)が家財道具を曹操に与えて援助しています。

 

こうしてみると、曹嵩は曹操にほとんど関心がなかったような気がしてきます。本当は曹嵩は曹操を危ないヤツだと考え、避けていたのではないでしょうか?

 

事実は曹操が、父親の身柄を確保しない内に徐州に攻め込んで、それに対し陶謙が腹いせで曹嵩を襲い殺害したのではないのかと思えてきます。

 

曹嵩の子供達

曹休と曹丕を可愛がる曹操

 

曹嵩の子供の記載は乏しく、名前も不詳な人までいれると以下のようになります。

 

長男:曹操

次男:曹彬(そうひん)(薊恭公(そきょうこう))

三男:曹〇(海陽亭侯(かいようていこう))

四男:曹玉(そうぎょく)(朗陵哀侯(ろうりょうあいこう))

不明:不詳(曹安民父(そうあんみんちち))

五男:曹徳(そうとく)

 

こうしてみると結構いますが、いずれも事績は伝わってなく曹操との関係も希薄であり、曹彬、曹玉については、それぞれ、曹均(そうきん)と曹徽(き)を養子に迎えたという記述しかありません。

 

古代中国では、先祖を同じくする血縁集団が組織の基礎ですが、曹操に関しては非常に疎遠な印象を受けます。これはやはり、曹操と曹嵩と一族に何らかの確執があり、曹操は曹氏の力を利用できなかったという事なんじゃないかと思います。

 

曹嵩の生涯

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

陽嘉(ようか)4年(135年)頃(推定)夏侯氏の子として誕生、その後曹騰の養子となる。

永寿元年(155年)長男曹操が誕生。

中平4年(187年)崔烈と交代し太尉に昇進するが翌年辞任。

中平5年(188年)役人を引退し故郷礁に隠居する。

中平6年(189年)董卓の戦乱を逃れ、一族と徐州瑯邪郡に避難。

初平4年(193年)曹操が兗州牧となり迎えを寄こしたので移動しようとした矢先、陶謙配下の兵に殺害される

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

謎の多い曹嵩ですが、そこには曹操との縁の薄さも影響しているかも知れません。息子を信用せず、曹操の挙兵に資金も出さず、同道もしなかった曹嵩。それは、よくも悪くも彼が凡人で、曹操の非常の傑物の才能を見抜けなかったせいか、あるいは感情的に曹操が嫌いだったのか?

 

どっちなんでしょうね。

 

参考文献:正史三国志武帝紀 後漢書宦者列伝

 

関連記事:曹操の兄弟と父の曹嵩はやっぱり英雄の血を引いていたの?

関連記事:曹操の徐州大虐殺 ―きっかけは曹操の父親だった。その父親とは?-

 

三国志とお金の話

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

-はじめての漢
-