沙摩柯は、荊州に住んでいた武陵蛮出身と推測される異民族で孟獲同様、正史三国志に記録が残る人物です。
正史では、劉備の呉攻めに協力し夷陵の戦いで陸遜に敗れて周泰に殺害されました。史実では一行に満たない出番ですが、その蛮人という特性が三国志演義ではクローズアップされ、あり得ないようなモンスター造形にされています。
でも、本当の沙摩柯は見た目はワイルドでも割と常識人で悪役プロレスラーみたいなキャラだったのです。
この記事の目次
カッコよく登場する三国志演義の沙摩柯
三国志演義の沙摩柯は、三国志演義第82回に登場しますが、ワンポイントリリーフなのにやたらと派手な登場を飾ります。
劉備は本国から大軍を率いてやってきた、それに従うは蛮王沙摩柯で兵は数万である。
また同じく五渓蛮から、蜀将杜路、劉寧が兵を二手に分けて水陸から進撃、その威勢は天を震わせた。
こんな風で、三国志演義の沙摩柯は、劉備に次ぐ副将のような扱い、おまけに杜路と劉寧という二人の蜀将を従えている感じです。ちなみに、杜路と劉寧も正史三国志にちゃんと登場します。
托鉢僧沙摩柯が甘寧を射殺
沙摩柯は次の三国志演義83話でも登場します。
ここで、呉の猛将、甘寧を討ち取る功績を挙げるのですが、その場面を読んでみましょう。
甘寧は病重く船の中で療養していたが、蜀兵が大挙押し寄せてきたと知り、急いで馬に乗って迎撃した。
遭遇したのは蛮族の兵で全員裸足で髪を短く切りそろえ、弓弩、長槍、盾と刀、斧を使う。
蛮族兵の酋長は蛮王沙摩柯で、生まれつき血を塗ったように顔が赤く、青い目が突き出していた。
沙摩柯の武器は釘バット(鉄疾黎骨朶)で左右の腰に弓を下げて、その姿はまるで托鉢僧のようだ。
甘寧は、その勢いを見て敢えて槍を交わさずに、馬の首を巡らして逃げ出すが、沙摩柯は矢を放ち甘寧の頭に命中させた。
甘寧はそのまま走り続け、富池口まで来ると、大きな樹の根本に座り込みやがて死んだ。
樹上には数百のカラスがいて、甘寧の死骸を囲んだ。
最後の死んだ甘寧を数百のカラスが囲んだというのも気味が悪いですが、それ以前の沙摩柯のフォルムが爆笑です。頭は丸坊主、足は素足で顔が血を塗ったように赤く、青い目が突き出していて、武器は釘バットでまるで托鉢僧のようだと言うのです。
いやいや、こんな狂暴な托鉢僧いないでしょ。日本で言えば僧兵のイメージがピッタリです。
「南無阿弥陀仏ゥーー!!漢に仇なす妖魔逆臣めが、拙僧が有難い苦魏伐斗で極楽往生させて遣わそうぞーーキエエエエエエーー!」
ダメだ、もう沙摩柯が魁男塾の厳娜亜羅十六僧の誰かにしか見えなくなりました。
劉備が白帝城に入ってから周泰に討たれる沙摩柯
しかし、沙摩柯の活躍もここまで、84話では陸遜が出てきて、長く伸びすぎた劉備の兵営に火を放つとあっと言う間に陣営は炎上し蜀軍は総崩れになります。進退窮まった劉備ですが、趙雲が救出に登場して、無事に白帝城に帰還しました。
そして取り残された蛮王沙摩柯ですが、馬に乗って奔走している時に、呉の周泰に出くわし、槍を二十合も合わせた末に周泰に斬られています。
蜀将の杜路や劉寧も、全く良い所なく呉に降伏しました。沙摩柯は敗走ではなく奔走しているので、何かをしようとしていたのかも知れません。劉備を逃がすための奔走なら美談ですけどね。
正史三国志の平凡な沙摩柯
三国志演義では、妄想力全開に暴れ回る沙摩柯ですが、正史三国志では陸遜伝のみの登場です。それも、張南、馮習及び胡王沙摩柯等の首を斬り、四十余兵営を破った。蜀将、杜路、劉寧らは窮迫して呉に降ったという一文だけです。
つまり、三国志演義と違い、胡王沙摩柯の姿についての言及はどこにもありません。短髪で素足で青い目が飛び出ていて、釘バットを片手に甘寧を射殺した爆笑モンスターは、正史三国志からは感じ取れないのです。
そもそも、正史三国志では。沙摩柯がどこの異民族かについてさえ言及していません。胡王沙摩柯というのも奇妙で、普通、胡というのは北方異民族の名称です。沙摩柯は、明らかに南方の異民族イメージなのですが、なぜか胡王と呼ばれています。何かのミスなのかよく分かりません。
【次のページに続きます】