戦国時代を生み出すきっかけと言われている、応仁の乱を取り上げます。11年もの間、京都の町を炎上させ、戦いの場所としたこの乱は、なぜ行われたのか?そしてどうしてこんなに長く「だらだら」続く結果となったのか、その原因と影響について検証します。
この記事の目次
応仁の乱とは?
応仁の乱とは、室町時代の中期に起きた内乱です。その長さは1467(応仁元)年から1478(文明9)年まで11年以上続き渡り、「だらだら」と長引いたためにその後の戦国時代突入のきっかけとなった事件です。
細川勝元を中心とした東軍が16万の軍勢、山名宗全(やまなそうぜん)を中心とした西軍が11万の軍勢で、両者が京都で激突。全国の守護大名を巻き込んだ長い戦いになりました。
応仁の乱の原因は?
応仁の乱の原因はいつくかあり、主に次の理由が考えられます。
1、途中から政治に興味を無くし、早々と弟を後継者にした将軍・足利義政の性格
2、将軍の妻で、側室を追放し実子を利用して政治権力を握ろうとした日野富子の野望
3、後継者争いを口実に京都で守護大名同士が激突
4、同時に起きていた畠山・斯波氏の家督争い
応仁の乱はなんであんなに長引いた?
応仁の乱は全国の守護大名を巻き込んだ戦いになりました。ところが長引いたのにはいろんな事情が重なりました。たとえば義政の弟・足利義視は、当初東軍側として戦いました。ところが西軍側に取り込まれてしまい、西の将軍として戦います。
また周防の国から1万の大軍を率いた大内正弘が戦いに加わるなど、次々と東西に新しい大名が軍に参加したために、戦いの終結の見通しが立たなくなりました。
さらに将軍家のほか、有力大名の畠山・斯波氏の後継者争いも絡んでいました。こう着状態だったこの戦いも、最終的に和睦が行われて乱は終結しますが、そこに至るまで11年の長きにわたり京の都は戦乱状態となってしまったのです。
応仁の乱の勝者は結局、東軍?西軍?
表向きの終結ですが、西軍総大将の宗全、東軍総大将の勝元のふたりが死亡したことを契機に和睦が行われます。表向きの理由として西軍の解体という形でようやく乱は終結しました。つまり東軍が勝利という形です。
しかしあくまで表向きの理由です。この戦いでは、後の関ヶ原の戦いのように東軍・西軍のどちらかが明確に勝利したわけではありません。勝利者は不在のまま、11年の長きにわたり京の都は荒れ果て、足利将軍家の権力が大幅に低下。戦国時代へ突入しました。
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