孫亮とは、三国時代の孫呉の第2代皇帝である。字は子明、初代皇帝である孫権の七男。243年生まれ、260年没。幼くして皇帝となり、若くしてその生涯を閉じることとなった人物。今回はそんな孫亮に注目しつつ、僭越ながら孫亮についての評価をしたいと思います。
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荒れに荒れた祖国
さて孫亮は七男と言ったように、生まれつき次期皇帝とされていた訳ではありません。孫権には皇太子・孫登がおりました。何もなければ孫亮まで皇帝の座は回ってこなかったでしょう。
しかし241年、孫登が早逝してしまいます。この時には孫登の遺言もあり、弟である孫和が皇太子となるのですが、孫権は孫和の弟である孫覇にも同じ待遇で接していました。
こうなると周囲を巻き込んで孫和派、孫覇派で揉めていきます。これが悪名しかない「二宮の変」です。
可愛がられた末っ子
さてこうなると仲裁しなければならない立場の孫権ですが、彼はこの後継者争いに嫌気がさしていたのか、問題をほっぽりだして末っ子の孫亮を可愛がり始めます。そして問題を先延ばし先延ばしにして250年、驚きの結末が下されます。
孫和は廃され、孫覇は自害を命じられ、皇太子となったのは孫亮でした。そして252年、孫権は没し、10歳の孫亮が皇帝となったのです。
専横に次ぐ専横
孫権は最期に諸葛恪に孫亮の補佐を頼みますが、よりによってこの後で諸葛恪は魏に大敗。大敗だけならまだ良いもの(良くはない)の、その失敗を失敗で上書きしようとします。
大敗によって失った信頼、それを取り戻すために権力を握ろうとしたのです。このために諸葛恪は孫峻によって殺されることとなってしまいました。
しかし諸葛恪を倒した孫峻が忠義心に溢れた清廉な人物という訳ではなかったのは髀肉の嘆……いえ、皮肉としか言いようがなく、
今度は孫峻の、そして孫峻亡き後は孫チンの専横が始まるのです。
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