孫呉の第2代皇帝・孫亮は「なにかできた」か?「なにもしなかった」か?

2020年10月23日


 

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孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

孫亮(そんりょう
)
とは、三国時代の孫呉の第2代皇帝である。字は子明、初代皇帝である孫権(そんけん)の七男。243年生まれ、260年没。幼くして皇帝となり、若くしてその生涯を閉じることとなった人物。今回はそんな孫亮に注目しつつ、僭越ながら孫亮についての評価をしたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荒れに荒れた祖国

孫登

 

さて孫亮は七男と言ったように、生まれつき次期皇帝とされていた訳ではありません。孫権には皇太子・孫登(そんとう
)
がおりました。何もなければ孫亮まで皇帝の座は回ってこなかったでしょう。

 

孫和

 

しかし241年、孫登が早逝してしまいます。この時には孫登の遺言もあり、弟である孫和(そんか
)
が皇太子となるのですが、孫権は孫和の弟である孫覇(そんは
)
にも同じ待遇で接していました。

 

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

こうなると周囲を巻き込んで孫和派、孫覇派で揉めていきます。これが悪名しかない「二宮の変(にきゅうのへん)」です。

 

可愛がられた末っ子

後継者争いを放置する孫権

 

さてこうなると仲裁しなければならない立場の孫権ですが、彼はこの後継者争いに嫌気がさしていたのか、問題をほっぽりだして末っ子の孫亮を可愛がり始めます。そして問題を先延ばし先延ばしにして250年、驚きの結末が下されます。

 

孫覇

 

孫和は廃され、孫覇は自害を命じられ、皇太子となったのは孫亮でした。そして252年、孫権は没し、10歳の孫亮が皇帝となったのです。

 

専横に次ぐ専横

諸葛恪の栄光と破滅03 諸葛恪

 

孫権は最期に諸葛恪(しょかつ かく
)
に孫亮の補佐を頼みますが、よりによってこの後で諸葛恪は魏に大敗。大敗だけならまだ良いもの(良くはない)の、その失敗を失敗で上書きしようとします。

 

諸葛恪の栄光と破滅

 

大敗によって失った信頼、それを取り戻すために権力を握ろうとしたのです。このために諸葛恪は孫峻(そんしゅん
)
によって殺されることとなってしまいました。

 

諸葛恪と孫峻

 

しかし諸葛恪を倒した孫峻が忠義心に溢れた清廉な人物という訳ではなかったのは髀肉の嘆(ひにくのたん)……いえ、皮肉としか言いようがなく、

 

孫綝

 

今度は孫峻の、そして孫峻亡き後は孫チンの専横が始まるのです。

【次のページに続きます】

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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