許攸は、荊州南陽郡の人で字は子遠です。
三国志では、天下分け目の官渡決戦において土壇場で袁紹陣営から曹操に鞍替えし、烏巣に袁紹軍の食糧が集積している事を告げ、曹操の逆転勝利に貢献しました。強欲な裏切り者として評判のよくない許攸ですが、本当はどんな人物だったのでしょうか?
この記事の目次
ズバリ!許攸とはこんな人
時間のない人におすすめ、ズバリ許攸とは?
1 | 袁紹や張邈と奔走の友(曹操とは幼馴染) |
2 | 霊帝を廃位しようとして失敗逃亡。袁紹の配下になる |
3 | 袁紹に曹操と戦うべきではないと進言したが無視された |
4 | 欲深く現状に満足しない事から袁紹が持て余し孤立 |
5 | 官渡の戦いで袁紹を見限り曹操に寝返る |
6 | 袁紹軍の食糧倉庫の場所を曹操に教え曹操逆転勝利 |
7 | 功績を誇り、曹操に睨まれ殺害 |
以上です。さて、ここからは、より詳しく許攸の生涯に迫ります。
若い頃から霊帝廃位を企んだ陰謀家
許攸は荊州南陽郡の出身で、三国志魏書袁紹伝に引く英雄記によると、若い頃は袁紹や張邈と奔走の友の交わりを結び曹操とも幼馴染のようです。
しかし、許攸は若い頃から野心家のようで黄巾の乱の前に、冀州の王芬等と共に暗愚な霊帝を廃位して合肥侯を帝に立てようとし失敗。王芬は自殺し、許攸は袁紹に匿われて部下になりました。
皇帝廃位を計画した男を匿うとは、いかに奔走の友とはいえ袁紹の男気はスゴイです。もしバレたら、いかに袁家の人間とはいえ、ただでは済まなかったでしょう。
袁紹の参謀になるが意見は用いられず
許攸は田豊、荀諶と並び称されるほどの名参謀だったそうですが、欲深い性格で、また、曹操に降った頃の様子を見ると自分の功績を誇るタイプの嫌なヤツだったようです。
袁紹は、そう言う事もあってか次第に許攸を疎んじ用いなくなりました。
魏略によると許攸は、官渡の戦いでは、曹操と戦ってはならぬと袁紹に説いたようですが、兵力の精強を誇る袁紹は聞き入れようとはせず、そこで愛想が尽きたとされます。
一方で、正史三国志では袁紹に、曹操側の本拠地許と兵站路を襲撃して曹操の死命を制するような計略を進言するも、袁紹が受け入れず、さらに同じ頃に許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されました。許攸は袁紹に失望し、出世は望めぬと考え曹操に寝返る事を密かに決意します。
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極秘情報を手土産に曹操に寝返る
このような経緯から許攸は、官渡決戦の最終盤で曹操に寝返ります。しかし、策謀家・許攸は決して闇雲に寝返ったのではなく、自分の寝返りが曹操に勝利をもたらす絶好のタイミングを計っていました。
正史三国志武帝紀に引く、曹瞞伝では、許攸の寝返りを知った曹操は裸足でこれを迎え、
「あなたが来たからにはこの戦には勝った!」と言ったと書いてあります。
許攸は「兵糧はまだ1年分ある」と虚勢を張る曹操に対し、袁紹に勝ちたいなら本当の事を言うよう詰め寄り、
「正直言うと後1ヶ月分もない。どうすればいい?」と曹操が本心を継げると
「袁紹は全ての兵糧を烏巣に集積していて守りは手薄。ここを焼き払えば勝てます」と進言します。
曹操は、大喜びして騎兵5千で自ら烏巣を襲撃して焼き払い、官渡の戦いを勝利に導きました。
このやり取りは、許攸が袁紹軍のアキレス腱を握って降伏した事を物語っています。曹操軍の兵糧不足を見て取り、曹操が烏巣の食糧庫襲撃を決断する局面まで追い詰められないと許攸の進言は価値が薄いのです。
逆に言うと、軍の極秘情報を握った許攸の処断を躊躇した袁紹の読みは甘かったと言えるでしょう。
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