呉のラストエンペラー孫晧。正史三国志では暴君として知られ、些細な罪で人を殺したり、酒が飲めない部下に吐くまで飲酒を強要したり、アル中ヒゲダルマの負の部分をもっと濃くした印象です。
そんな孫晧のドン引き逸話としては、部下の目をくりぬき、顔の皮を剥いだという死体損壊癖があります。ただ、古今東西、滅びた国の君主は悪く書かれるものですから、孫晧もそうだったのではないか?と思いきや、どっこい、それは本当だったようです。
晋書武帝紀の記述
孫晧の残虐な刑罰については、晋書武帝紀において詳細が出てきます。
晋に降伏して帰命侯となった孫晧は、司馬炎の大宴会に招かれてのこのことやってきました。司馬炎は上機嫌で「朕はこの座席を設けて君を長らく待っていた」と言いますが、孫晧は「私も南方で座席を開けて陛下を待っていたのです」と言い返しました。
司馬炎は笑っていましたが、賈充はこの暴君めに恥をかかせてやろうと「あなたは南方で人の目をくりぬき、顔の皮を剥いでいたそうだが、何に対する罪だったのか?」と質問します。
これに対し孫晧は「部下の中で君主を弑逆したものや奸悪で不忠なものがいたので刑を加えたのです」と答え、暗に賈充が主君である曹髦を殺した大逆人と揶揄し賈充は恥じ入ったとあります。
孫晧の機知を捉えたものですが、本当に孫晧は家臣の目をくりぬき、顔の皮を剥いだのでしょうか?
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陸抗の上奏文
実は、孫晧の死体損壊癖は陸遜の子の陸抗の上疏文に登場します。陸抗は、孫晧が武昌左部督の薛瑩を呼び寄せて投獄したと聞くと助命を請い、君子の道に外れた振る舞いは止めるようにと孫晧に抗議します。
この一文の中に孫晧の死体損壊癖について出てくるのです。
賢人とは国家にとって掛け替えのない存在です。古くは、大司農楼玄、散騎中常侍王蕃、少府李勖はみな賢人・賢臣でしたが、現在は、皆な罪を被る所となり、ある者は殺され、または一族皆殺しの目に遭いそうでなくても流罪ととなっています。
「周礼」には賢者は避けて赦すとあり、「春秋」には善を赦す義があり「書経」は無実の人を殺すのではなく無法者を少なくせよとあります。
翻って王蕃らは忠臣でありながらいかなる罪か定まらない間に殺されました。誠に痛ましい事です!また、その亡骸を焼いたり腐らせたり、流したり、遺棄したり砂浜に棄て去るのは、古代の聖王の教えから外れ、古えの甫侯が戒めた事でもあります。
百姓は嘆き悲しんで士民は、これからどうなる事かと憂いを同じくしました。どうかせめて生存している楼玄を赦して釈放して下さい。
原文は、焚爍流漂ですが、孫晧が死体を焼き捨て、腐らせ、海に流して漂わせたり、砂浜に遺棄して辱めるのを止めるように説いています。
孫晧の伝記には、宮女を殺して死体を宮殿に繋がる川に捨てて流したともあり、孫晧の残酷な死体損壊癖は、必ずしも晋の悪宣伝に過ぎないと断定できないようです。
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死体損壊の意味は?
孫晧だけでなく、呉には死体損壊の記述が時々見られます。
例えば、呉軍が交州を奪還した時に捕らえた楊稷は、まもなく血を吐いて病死したため、呉では首だけを建業に送り、死体は海へ捨てたと書かれています。ただ、これらの行為を人の死体を損壊して楽しむ習慣と考えるのは誤りです。
古代中国には死者は、その氏族の子として生まれかわるという考え方があり、その時に、五体が揃っていないと障碍を背負って生まれてくると考えられていました。宦官でも、死んだ時には切り離したアソコを一緒に埋葬し、次は五体満足で生きられるようにと願いを託したのです。
という事は、逆に言えば憎い相手の死体を傷つけてバラバラにすれば、生まれ変われなくなるという事にもなりました。
この思想が根底にあるので、中国では憎い相手の死体をバラバラにしたり、骨まで砕いて飲んでしまうなどの死体損壊が起きていたのです。
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孫晧はみせしめのつもりだった
翻って、賈充にどうしてあなたは家臣の目をくりぬき、皮を剥いだのか?と聞かれた時の孫晧の返事を見てみると、主君を殺すような不忠者がいたからだと答えています。
つまり、孫晧は個人的な趣味ではなく、皇帝の権威に逆らった最も罪が重い反逆者に報いる手段として、目玉をくりぬいたり、皮を剥いだという事になります。
これは、肉体を損壊されたら、五体満足で生まれて来られないという中国の土着の習慣を逆手にとった見せしめであり、孫晧には人の肉体を損壊させて楽しむ趣味は無かったと言う事が出来るのかも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
暴君とされる孫晧ですが、実際にはその権力は弱く周囲の豪族に振り回され、当人としては恐怖政治で国をまとめるしかない思いつめた面もあるように思います。
初期の名君が突如暴君になったと言うより、皇帝による中央集権を志向した結果として、残酷な面がいよいよ強調されるようになったという事ではないでしょうか?
参考文献:正史三国志 晋書
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