かつて魔女狩りと言えば中世のヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派の弾圧やテンプル騎士団への迫害以降にローマ教皇庁の主導により異端審問が活発化し、それに伴い教会の主導による魔女狩りが盛んになり数百万人が犠牲になったと語られました。
暗黒の中世とキリスト教のセットですが、1970年代以降、様々な研究により教会による魔女狩りのステレオタイプは覆され実際には中世の魔女狩りのイメージは19世紀の小説家、ラモト=ランゴンの空想の産物を歴史家が真に受けたモノに過ぎないそうです。
歴史家が空想家の嘘にまんまと騙されたわけですが、実際の魔女狩りは12世紀の中世ではなく、最初の魔女狩り裁判が起きたのは、中世も終わりに近い15世紀に入ってからの事でした。
この記事の目次
魔女狩りを推し進めたのは民衆
実際の教会は民衆の呪術や占術に介入する事に消極的で、よほどの証拠がないと介入しようとしませんでした。
逆に魔女狩りに熱心だったのは民衆であり、ドイツの一部の村では、委員会を組織して住民を代表して魔女を告発したり、証人を尋問したり裁判所に異端審問を開くように圧力を掛け、魔女の迫害を推進したのです。
魔女狩りが民衆の不満のガス抜きになると考えた王や貴族は、この魔女狩りブームに乗ったり、見てみない振りをするようになり、イングランドでは国王任命の職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行いました。
かくして教会の魔女裁判は減少し、逆に世俗の魔女狩りは急増していくのです。誰かを犯人に仕立て上げる事で社会不安やストレスを解消させる人間の嫌な闇の部分が、魔女狩りを一大ムーブメントに押し上げたのでした。
関連記事:殴られて記憶喪失はアリエナイってホント?【ゆるい都市伝説】
関連記事:アメリカ独立の父 ベンジャミン・フランクリンは華麗なるペテン師だった
魔女狩りとワルド―派
12世紀に始まった異端審問が本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀に入ってからです。それはローマ教皇庁に異端の烙印を押されたワルド―派が迫害を逃れて潜伏していたアルプスの西部地方で始まりました。
このワルド―派は12世紀にワルド―という一巡回説教者によって創始されましたが、福音書に基づく清貧の生活を重視し、教会の命令に従わないので次第にカトリックの脅威と見做され、異端の烙印を押されて弾圧が開始されます。ワルド―派は、弾圧を逃れる為に地下活動を選択し、秘密裏に町々を移動して説教を行うシステムを構築、説教者には男も女もいました。
ワルド―派の中のイタリア派は、ロンバルディアの貧者と呼ばれ、表向きは教会の信者を装いつつも、裏では福音書に書かれているような道徳を守る事が第一と説き、徳のない聖職者には従わなくてもよいと説いたり、蓄財で腐敗したカトリックの組織全体を無意味と批判。また、煉獄や聖人崇拝など聖書に書かれていない教義や慣習も否定します。
こうした運動は、南フランスから北イタリア、アルプス地方、オーストリア、ドイツ、ボヘミアに広がり、危機意識を持ったカトリックは異端審問を開始して徹底的に弾圧し、その一部がボヘミアやアルプスの北に残る事になりました。
しかし、ここで起きていたのは魔女狩りではなく、カトリックが異端と決めつけた宗教に対する異端審問でした。
では、これがどうして魔女狩りへと変化したのでしょうか?
関連記事:欧州諸侯を苦しめたカトリックの教会税
関連記事:ジャンヌ・ダルクの最後は壮絶!どうして救国の英雄になった?
魔女狩りガイドブック「魔女に与える鉄槌」
15世紀に入ると魔女と妖術に関する書物が一種のブームになります。それらは「異端の魔女の鞭」とか「魔女と予言者について」とか、おどろおどろしいタイトルがついていましたが、多く発行された魔女本の中でも、1486年ドミニコ会の異端審問官だったハインリヒ・クラ―マーよって執筆された「魔女に与える鉄槌」は大きな反響を呼びました。
どうして、魔女に与える鉄槌が魔女狩りに大きな影響を与えたのか?
それは、この書物が魔女の妖術を疑う人々への反駁と妖術の犯人は男より女が多い事を示し、同時に魔女発見の手順とその証明の方法について記したからです。また、ハインリヒ・クラ―マーは自著に権威のお墨付きを与える為、学識者であったドミニコ会士のヤーコプ・シュプレンガーの名前を勝手に使って箔付けしました。
さらに、クラ―マーは、ローマ教皇インノケンティウス8世に魔女狩りを行う事を認めて欲しいとする請願を為しました。
インノケンティウス8世は「この上ない熱情をもって願わくは」という回勅を出し、クラ―マーはこの回勅を「魔女に与える鉄槌」の序文に転用します。ところが、インノケンティウス8世は魔女狩りを認めたのではなく、審問官としてのクラ―マーとシュプレンガーの役割を認めただけでした。
さらに、クラ―マーは、ケルン大学神学部に著作を送付して学術的承認を求め4人の教授から「同書の考察は是認しうるもの」との所見を得ます。こうしてクラ―マーは「ケルン大学神学部による承認を受けた」として書物を喧伝しましたが、ケルン大学は、後にこの鑑定を誤りとして訂正しようとしました。一連のクラ―マーの行動を見ると、やはりケルン神学部を欺いたのでしょう。
一連の詐欺的手法により、1490年クラ―マーは教会の異端審問部に弾劾されます。しかし、すでに手遅れで「魔女に与える鉄槌」は内容の訂正を経ぬまま1487年から1520年に13版を重ね、1574年から1669年までにさらに16版増刷されるベストセラーになったのです。
また、当時は著作権の概念もないので、海賊版も大量に印刷されて横行、ヨーロッパの広い地域で「魔女に与える鉄槌」は魔女狩りのバイブルとなりました。
元々クラ―マーは異端審問官として、1485年頃から魔女狩りを開始しましたが、それは拷問、弁護人禁止、供述書の改竄という当時の常識でも認められないものでした。たちまちのうちにクラ―マーに非難の声が上がり、被疑者は釈放されクラ―マーは同地を追放される事になります。
かくして信用を失ったクラ―マーは自らの正しさを証明しようと「魔女に与える鉄槌」を書き、皮肉にもそのインチキの権威で飾った本がベストセラーになり、欧州各地にクラ―マーの分身を産み出す事になったのです。
関連記事:テンプル騎士団とは?清貧を掲げた金融組織が滅亡した理由
魔女のイメージを変えた反ユダヤ感情
また魔女狩りは当時の欧州を覆っていた反ユダヤ感情とも結びつき、子供を捕まえて食べる鉤鼻の人物という魔女像が産み出されます。
先に述べたようにワルド―派では女性も説教師として地下活動をしたり、カトリックになりすまして布教をしていたので、それまで女性に限られなかった魔女のイメージが、反ユダヤ感情とも融合し鉤鼻の黒い服を着た女性として集約されていくのです。
この点が端的に分かるのが、魔女の集会であるサバトですが、これはユダヤ教における安息日であるサバトから来ていて、明らかにユダヤ人への偏見から生じているのです。
関連記事:古代ギリシャで民主政が大失敗した理由は?
関連記事:斬首刑と楽しむ至極のフレンチ!フランス革命とフランス料理の意外な関係
【次のページに続きます】