万里の長城は春秋時代から各地で建築が進められ秦の時代には、それぞれが連結されて大陸を東西に横切る巨大な壁になりました。
長城建設の目的は圧倒的攻撃力を持つ周辺の遊牧民が騎馬で中国領内に入れないようにする為でしたが、その割に中国は何度か遊牧民の支配に屈しているような気もします。そこで今回は、万里の長城は役に立ったのかを検証してみましょう。
この記事の目次
万里の長城は遊牧民に備えたもの「だけ」じゃなかった
万里の長城は、中国の春秋時代に戦国七雄と呼ばれた国々で建設が始まりました。これらの七国の中には遊牧民と国境を接していない国もあり、当時は遊牧民を撃退する壁として統一された意識ではありません。
しかし、秦の始皇帝が中国を統一した頃、同じく北方の遊牧民族の匈奴が精強になっていたので、秦と同じく北方の遊牧民に備えて壁を建設していた、趙や燕の長城を繋いで北方遊牧民に対する備えとしました。
同時に始皇帝はそれ以外の国内の長城を破壊したので、万里の長城といえば北方遊牧民に備える壁という認識が固定化したのです。その為、万里の長城=秦の始皇帝が建設した物という認識が一般化しました。
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万里の長城は常に使用されたわけではなかった!
万里の長城のイメージとして、北方の遊牧民に対して中華王朝が城壁を築いて遊牧民が侵入できないようにしたというものがあると思います。
しかし、実際は万里の長城が常に防壁として機能したわけではなく、例えば後漢時代は王朝の財源不足で長城のメンテも防衛も行われず遊牧民は侵入し放題でした。
また、遊牧民が起こした王朝である唐は万里の長城を放置してメンテナンスせず、次の宋、元、清王朝は万里の長城をほとんど、あるいは全く整備しないままでした。
宋は南北あわせて経済力が強く、周辺の遊牧民族国家に毎年、多額の贈物をして和平を結んだので長城が必要なく、元と清は漢民族ではなく蒙古や女真族のような遊牧民なので、長城を必要としなかったのです。
逆に、北方の匈奴に脅かされた秦や前漢は長城の整備に余念がなく、南北朝時代の北魏はもっと北で勃興した遊牧民族柔然に備える為に長城を整備。北斉時代には柔然に変わって突厥が勢力を伸ばしたので、長城の整備が続けられています。
金の時代には、契丹や蒙古の勢力が盛んになったのでモンゴル高原の北限にまで界壕と呼ばれる空堀を掘り、その土で長城を築きますが、やがて北方の蒙古に征服されました。
その蒙古が建国した元をモンゴル高原に追い払った明ですが、永楽帝の時代には、再び蒙古や女真族の勢いが盛んになったので長城を復活させて対抗しています。
こんな具合で万里の長城は2700年くらいの歴史で実際に機能したのは1/2くらいであり、常に機能していたとは言えないのです。
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侵略の壁でもあった万里の長城
守りに徹する城壁イメージの万里の長城ですが、現在残っている長城には草原の中にポツンと佇んでいる遺構もあります。これは、例えば前漢時代、漢王朝が匈奴に連勝して匈奴の生活圏に食い込んでいった証拠で、つまり匈奴から奪った領土を守る為に、そこに長城を建設したのです。
長城=防御の壁とは限らず、王朝と遊牧民の力関係次第では、長城が圧迫の壁になっていたというのも一面の事実なのです。
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長大な万里の長城をどうやって守った?
万里の長城は計測の仕方で総面積が異なりますが、現在残存する部分だけで6000キロを越える長さがあります。
つまり、1kmごとに兵士を置いたとしても6000人、それではとても役には立ちませんから、100mごとに兵士を置いたとしても6万人です。こんなにバカみたいに長い長城を歴代王朝は、どのように遊牧民から防衛したのでしょうか?
その答えは烽火台で、長城の近辺に設置し遊牧民の襲撃を発見すると次々に点火して、各地に敵襲を伝えると同時に援軍を要請する仕組みになっていました。また、長城には数百mごとに敵台と呼ばれる四方を壁で覆った防御施設が完備され、ここに指揮官が入り、兵士を指揮する事が出来ます。
長城を守る兵士は、普段長城の下、関城と呼ばれる場所で待機し関城の外側は甕城と呼ばれる半円型城塞都市が接合されていました。
兵士は有事には武装して内側の登坂口から長城に駆け上がり任務についていたそうです。機能的な万里の長城ですが、王朝末期には兵力不足と士気の低下に悩み長城を突破されて蹂躙を許してしまう事も度々でした。
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普段は交易の場所だった万里の長城
攻防が繰り返された万里の長城ですが、実際はその何十倍も交易の場所でもありました。先に述べた関城は遊牧民族に開かれた交易の窓口であり遊牧民はここで主として馬を売り、逆に中華世界からは、お茶や穀物、金や銀、絹が輸出されています。
このような交易形態を互市と言いますが、遊牧民の世界では農耕をしないので、食糧がとぼしくなってきた時に五市で得られる穀物は必要不可欠でした。そもそも遊牧民が長城を越えて侵略してくる理由も大半が食糧不足なので、定期的に互市を開く事は軍事的衝突を回避する有効な手段でもあります。
ただ取引は常に上手く行くとは限らず、貿易摩擦から遊牧民の侵攻に繋がる事もしばしばで、1550年にはモンゴルのアルタン・ハーンが長城を突破して北京を包囲する庚戌の変が起きました。
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