春目前!なのに夏特集?幻の夏王朝は存在したの?

2016年2月18日


 

夏

 

日本の世界史教科書では、長年、中国最古の王朝は殷だと教えられてきました。

しかし、近年、発見された、新しい遺跡や年代測定法により、殷を遡る、

夏(か)王朝の存在が、現実味を帯びていると言われます。

では、夏王朝は、本当にあったのでしょうか?

それを検証してみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ところで夏王朝って何?美味しいの?

(夏の領域 写真出典元:wikipedia)

では、そもそも夏王朝とは、一体どんな王朝だったのでしょうか?

史記夏本紀の記述によると夏は、黄河の治水を成し遂げた、聖人禹(う)が、

舜(しゅん)帝から帝位を禅譲(ぜんじょう:ゆずりうける事)され

開いたとされています。

 

王朝の期間は紀元前2070年~紀元前1600年頃までと、

殷と並ぶ、およそ500年という長期政権ですが、そうは言っても、

夏王朝の事績の殆どは伝わっておらず、17代も帝がいる割には

在位期間も、諡号(しごう:死後に与えられる名前)も不詳という人物が多く

 

また、王朝末期に暴君が出て、諸侯の心が離れ、

新しい有徳者に滅ぼされるという筋立てが殷王朝の末期に

極めて似ている事から後世の人々が、殷周革命を

模倣して造った創作であると長い間、信じられてきました。

 

1959年、二里頭(にりとう)遺跡が発掘される

(后母戊鼎 写真出典元:wikipedia)

 

しかし、殷王朝は成立当初から、高度な青銅器技術や、甲骨文字を持つなど

ゼロから出発したとは思えない高い文明を有していました。

この事から、殷が模範とした前王朝は存在すると考えられていたのです。

 

1959年、、中華人民共和国河南(かなん)省偃師(えんし)市の

二里頭村で遺跡が発見されました。

それは、かなり大規模な都市の遺跡であり、紀元前1800年~

1500年頃のモノと推定されたのです。

 

その時代とは、まさに夏王朝の中期から晩年にあたる時期で、

幻の夏王朝の都ではないか?と考えられました。

 

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二里頭遺跡からは、何が出土しているのか?

二里頭遺跡1号宮殿の基壇図 wiki

(二里頭遺跡1号宮殿の基壇図 出典元:wikipedia)

 

二里頭遺跡は、第1期から第4期までに分類できます。

1期と2期の工房からは、石器や陶器を製造する工房が発見されました。

そして、3期と4期のエリアからは、青銅器の工房、

そして1960年には、大規模な宮殿跡が発掘されています。

 

宮殿跡は、土を深く掘り、その後、土や石を交互に積み重ねて

固める版築(はんちく)という方法で造られた基壇(きだん)跡として発見されました。

この版築を用いて基礎を固め基壇を造る建築技術は、後の(いん)、

周、秦、漢から先に至るまでの宮殿建築の基礎になります。

 

二里頭遺跡で、現在確認されている宮殿は2つで、

1つは南北100メートル、東西108メートルで東南の一角が張り出した、

ほぼ正方形、あと1つは、東西78メートル、南北53メートルと小型です。

 

宮殿の北側に位置する主殿の跡は長方形で長さ35m、

幅25mある大きなものでした。

これを宮殿とするならば、ここには王が住んでいて、

周辺には家臣が住み、王朝が存在できた可能性もあります。

 

人口2万人、十字路も走っていた二里頭遺跡

1号宮殿の復元図 wiki

(1号宮殿の復元図 出典元:wikipedia)

 

また、二里頭遺跡の規模は、推定で最盛期に2万人という

人口が定住していたという事が分かってきています。

この人口は4000年前の世界では大都市と言ってよく、

人口規模から考えると、ここに国家があっても不思議はありません。

 

さらに、遺跡には、井の字型に東西南北に道路が走り、

小さいながら、馬車が走っていたという事も分かりました。

これは、碁盤目のような街路を造る、殷や周以降の

中国の都市設計に、よく似ています。

 

それに遺跡周辺からは、五穀、粟、キビ、小麦、大豆、水稲の種が

発見され、二里頭遺跡が、気候変動に関係なく、

長期間、人間が定住して住む事が出来た事も確認されています。

 

二里頭遺跡では、すでに分業が発生していて、

都市国家として、完成されていた初期の王朝であるという

考え方も存在しているのです。

 

二里頭遺跡は、夏から殷に奪われた可能性も・・

 

 

二里頭遺跡は、発掘により年代順に4期に別れると書きましたが、

これを、時期により支配者が変わった為と指摘する学者もいます。

 

3期、4期の地層から出土する、宮殿跡や青銅器の工房は、

夏を滅ぼした殷の文明であるという考えがそれで、

1期、2期は夏王朝、3期、4期は殷王朝で支配者が変わり、

それが出土物の違いとして出てきているというのです。

 

もし、これが正しければ、

暴虐な夏(か)の桀(けつ)王を殷(いん)の湯(とう)王が滅ぼした

という夏殷革命は、この二里頭遺跡で起きたのかも知れません。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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