16話:菫卓を変貌させた権力と武官差別

2015年1月10日


 

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董卓えらそう 独裁

 

菫卓(とうたく)というと、三国志においては、暴虐のシンボルであり、個人の武勇は凄いが、頭は李儒のような軍師を除けばタリラリラン♪という印象なのではないでしょうか?

 

袁術君08 コンフォートゾーン」から抜け出す05 董卓

 

しかし、三国志演義の悪玉という偏見を除くと、意外にも、気前の良い大将らしい大将の側面が見えてきます。

 

前回記事:15話:神をも畏れぬ暴虐非道後漢をブッ壊した独裁者・菫卓

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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董卓の若い頃はどんな人だったの?

朝まで三国志 董卓

 

若い頃の菫卓は、異民族であり幾度も漢の領地に侵入した羌族と交遊を結んでいたという記録があります。今からではイメージしにくいのですが、当時の漢民族は、侵略者である羌族を野蛮人として差別していて、対等に交わるなど思いもよらない事でした。

 

羌族

 

しかし、菫卓は漢民族でありながら、そのような偏見とは無縁で、羌族の顔役とは全て顔馴染みになっています。

 

董卓は羌族の族長達から歓迎されていた

朝まで三国志 董卓

 

ある時、羌族の族長達が、菫卓の自宅に訪問した時には、菫卓は、飼っていた農耕牛を何頭も潰して振舞って歓迎しています。その事に感激した族長達は、返礼として獣蓄千頭を菫卓に贈り物として渡しています。「感謝」ではなく「感激」です、いかに当時、漢民族が羌族を野蛮人扱いしまともに付き合おうとしなかったか分かります。

 

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董卓、異民族討伐のプロ

反乱を起こす羌族

 

菫卓は、後に司馬として、軍勢を率いて羌族の叛乱を討伐して、羌族一万人あまりを討ちとっていますが、それには、この時に培った人脈が大きく役に立った事でしょう。菫卓はこの功績で、絹織物7千疋を賜りますが、これを全て、家来達に分け与えています、気前が良いというのも菫卓の特徴の一つです。

 

羌族騎兵に救われる蓋勲

 

後に菫卓は、西域戊己校尉(せいいき・ぼき・こうい)という異民族討伐の将軍の地位について、100回以上も羌族と戦っています。100回戦っても、決定的な敗北もしなければ、囚われもしないというのは、菫卓が羌族の有力者と繋がっていた証拠ではないでしょうか?

 

董卓

 

言葉は悪いですが、ある程度の羌族の略奪行為には目をつぶり、度を超すと、兵を出しながら、族長と交渉をつけて兵を治める。このような、硬軟取りまぜた異民族の統治方法が、100回という菫卓の戦歴を物語っているように思えます。

 

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董卓も当初は善政を敷こうと努力してた

ミニチュアで遊ぶ董卓

 

さて、洛陽に入った菫卓も、当初は、天下の賢人を招聘して善政を敷こうと努力しています。一例を挙げますと、漢王室の臣である、侍中の伍瓊、吏部尚書の周珌、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事権を委任しています。

 

これは「独裁をするつもりはないよ、漢王室を尊重しますよ」という菫卓の意志表示とも取れます。

 

楊彪を司空に任命させる董卓

 

そして、荀爽を司空、劉岱を兗州刺史、韓馥を冀州刺史、張邈を陳留太守、張咨を南陽太守として低下した漢王朝の力を立てなおそうともしています。また、宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置を取るなど、決して暴力ばかりではない対応をしています。

 

董卓は袁紹も殺そうとしていた

董卓の相談に乗る袁紹

 

少帝廃位に反対して逃げ去った袁紹も当初は殺そうとしますが、袁家の影響力を恐れて、軍を出さず渤海太守に任命するなどして懐柔しています。ですが、どのように謙った対応をしても、菫卓に反発する勢力は減らず、逆に増加するばかりでした。

 

独裁政治のきっかけ

君主論 董卓

 

菫卓が引き立てた人士も、蔡邕(さいゆう)を除いては、反抗的でしかなく「身分賤しき田舎者風情の命令など聞けるものか!」という態度でした。異民族の羌族とさえ、仲良く付き合ってきた菫卓に取って、身分の高い文官達の自分への差別心は、怒りを覚えるのに充分だったでしょう。

 

「洛陽の混乱を収拾し、漢王室を復興させたのは誰か?この儂ではないか!身分だけ高い、あの文官連中が一体何をしたと言うのだ?」

ここで菫卓は、豹変し、恐怖で反抗的な者達を従わせる恐怖政治へとシフトして行ったのかも知れません。

 

牛輔と董卓

 

「所詮、身分が低い儂が、どんなに謙っても、身分差別は消えない、、それならば、力で抑えつけるしかない、儂は儂のやり方を貫くぞ」

 

もし、菫卓がもう少し、身分の高い家柄に生まれて、宮廷の名士達の尊敬を勝ち得る事が出来たなら、菫卓の暴政もなく三国時代の群雄割拠も無かったかも知れませんね。

 

次回記事:17話:結構頭脳派?少数の手勢を何倍にも見せた菫卓

 

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