漢の時代は前後で400年という空前の平和を謳歌しただけではなく、
教育機関が整備され全国に学校が設立されるなど識字率が高まった時代でもありました。
主要な都市には本屋があり漢字辞典が造られたのもこの漢の時代です。
もちろん、教育を受けられるのは、士大夫の身分や都市に住んでいる富裕な商人や
市民が多いですが、それでも文字を読み書きできる人口は数十万人にはなりました。
では、後漢の時代の学校とはどういうもので、どんな教科書が使われていたのでしょう。
この記事の目次
儒教を国教とする必要性から武帝は全国に大学を設立
中国で大学相当の教育機関が造られたのは前漢の武帝の時代の事です。
すでに儒教を国教としていた漢は、親には孝、君には忠という国内統治には
都合のいい儒教を広めようとして、全国に大学相当の建物を立てました。
しかし、この時点では小中高校に相当する初等教育機関はまだありませんでした。
ガリベン儒者だった新の王莽(おうもう)が教育機関を整備
武帝が設置した大学を拡充して、さらに基礎教育機関を全国に設置したのは
前漢を簒奪した反逆者である王莽(おうもう)でした。
王莽は、バリバリのガリベン儒者であり、儒教こそが最も優れた学問だと考え、
それまでの大学に加えて、郡国には大学相当の「学」という教育機関を設置し、
さらに、県、道、邑(ゆう)、侯国にも高等学校相当の「校」という機関を設置します。
この二つを並び称して学校といい現在でも日本では使われています。
そして、王莽は県よりも小さい単位である郷(ごう)や聚(しゅ)にも
「痒(よう)」や「序(じょ)」という小中学校相当の教育機関を置きました。
たった15年の短命政権に終わった王莽の新王朝ですが、
教育機関を隅々まで普及させた事は評価されてもいいでしょう。
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曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)も、これで学んだ?後漢時代の教科書
さて、8歳から15歳の年齢に達した子供達は、書館や書舎という所で、
初等教育を開始する事になります。
小さな郷や聚まで教育が届いた事から士大夫ばかりではなく、
比較的に裕福な農民の子供でも学ぶ人はいたようです。
当時は、そこまで身分制度が厳格ではなかったようで、農民の子供でも
県や郷の役人になれ、成績がよければその上の郡や中央の役人を目指す事も
不可能ではありませんでした。
そこでは、漢字を覚えさせる為の国語の教科書である、
蒼頡篇というテキストが使われました。
国語の教科書、蒼頡(そうきつ)篇の意外な執筆者達
蒼頡篇は、爰歴 (えんれき)篇と博学(はくがく)の3篇から構成されていて
およそ3000文字が収録されていたようです。
ちなみに蒼頡とは伝説上の人物で、漢字の元になる象形文字を産み出した人です。
この蒼頡篇は秦の始皇帝が七国の文字を統一した際に造らせた統一書体で
蒼頡篇は秦の丞相であった李斯(りし)が爰歴 篇は史上最悪の宦官との
悪名高い趙高(ちょうこう)が執筆しています。
李斯と趙高が書いた教科書で曹操や劉備が勉強していたなんて、
何か不思議な感じがしませんか?
※博学は同じく秦の胡母敬(こもけい)という人物の手によるものです。
それ以外にも教科書には、春秋時代の名将、司馬相如(しばそうじょ)「凡将篇」や
史遊(しゆう)(元帝期)の「急就(きゅうしゅう)篇」、李長 (成帝期)
「元尚(げんしょう)篇」そして、揚雄が上記3編をまとめた「訓纂(くんさん)篇」
というテキストを出しています。
急就編とは、3~7文字の言葉の韻を踏みながら暗誦するもので、
言葉遊びの延長で漢字を覚えさせようとしたユニークなテキストです。
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