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算数の教科書 六甲(ろっこう)、九九、急就(きゅうしゅう)、三倉(さんそう)
国語ばかりではなく、初歩の算数も教えられました。
六甲や急就や三倉などは、今となってはどんな計算方法か分かりませんが
九九のように今でも知られているものもあります。
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初等教育を終えると県校に進む
初等教育を終えると県校に移り、そこでは孝経(こうけい)と論語(ろんご)を
暗誦させられたようです。
三国志の人物の話には、やたらと「昔、○○国の○○は~」という故事成語が
出てきますが、教科書を丸暗記できていたなら、それも難しくは無かったでしょうね。
県校は15歳程度で終了して、大学に進みます。
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いよいよ、大学に進学
漢の時代の大学は全寮制で住み込みが当たり前だったようです。
太学というのが都にある最高学府で日本でいう東大扱いですが、
240房の寄宿舎があり、1850部屋が用意されていたといいますから、
2000名近い学生が学んでいたという事になります。
ちなみに学長を博士祭酒(はかせ・さいしゅ)、教授は博士(はかせ)、
生徒は博士弟子と言われたそうです。
太学は基本選抜ですが、地方からの推薦で入る生徒もいたようです。
地方の大学は郡大学といい、構成はほぼ同じ、名称は違い、
学長は文学主事掾(ぶんがくしゅじじょう)、教授を文学掾(ぶんがくじょう)
生徒は郡学生、弟子、諸生、諸郡生徒、文学弟子 と呼ばれました。
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三国志ライターkawausoの独り言
このような公共の教育機関以外にも後漢では私学と言う、今風にいう塾も盛んでした。
中央の高名な学者などが私塾を開くと生徒は殺到したと言います。
考えてみると盧稙(ろしょく)も私塾を開いて、公孫瓚(こうそんさん)や
劉備がそこで学んでいます。
三国志の英傑達も程度の差はあっても似たようなテキストで学んでいき、
相応の学問を身につけた事でしょうね。今日も三国志の話題をご馳走様でした。
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—
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この記事を書いた人:kawauso
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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。