黄巾の張角は「太平道」という宗教を作り、信者たちを増やしながら漢に対して反旗をひるがえしました。時を同じくして、よく似た宗教団体がもうひとつ誕生しました。それが五斗米道(ごとべいどう)です。
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五斗米道とは?
現在の四川省から陝西省あたりの漢中と呼ばれる地域に、この宗教は起こりました。教祖は張陵(ちょうりょう)で、その死後は子供の張衡(ちょうこう)、孫の張魯(ちょうろ)に受け継がれました。
太平道の張角と五斗米道の張陵の二人はブラザーなの?
ちなみに、太平道の張角と五斗米道の張陵、同じ張さんですが、まったく関係ない人ですから……!中国には「張三李四」という言葉があります。張さんちの三男とか李さんちの四男とか、ありふれている、という意味です。つまり、張姓はよくいるということです。
五斗米道(ごとべいどう)の名前の由来
五斗米道という名前の由来ですが、信者に五斗(約1リットル)のコメを出させたことからついたといいます。
五斗米道はどうやって広まったの?
太平道ととてもよく似て、病気を治すことをうたいました。まず、病人を静かな部屋に連れていき、罪を告白させます。そして天・地・水にかけて今後は罪を犯さないと誓って、三通の誓約文をつくって、祈祷しました。また、罪をのぞくためには、勤労奉仕をする必要性を説いたため、信者は競って土木工事に従事したり、米や肉を寄進しました。
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五斗米道の組織
修行のレベル順に上から、
「師君(のちに天師)」張魯
「治頭」教区の指導者
「祭酒」
「鬼吏」
「鬼卒」一般の信者 とされていました。
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五斗米道のその後
張魯は漢中に宗教王国を作り、30年近く、独立を保ちます。張魯を征伐する力のなかった後漢王朝は、彼らに貢物を献上する義務のみ与えて、独立政権を許したのです
215年に張魯は曹操に降伏しました。しかしそのあとも、支配下で活動は続けられました。五斗米道はこうして、のちの道教の発展に大きく貢献するのです。
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