三国志の英雄、関羽雲長が現代では『関聖帝君(かんせいていくん)』(関帝)という神格として信仰されていることは、三国志ファンの皆さんはよくご存知のことと思います。
関羽を祀る『関帝廟(かんていびょう)』は中国のみならず世界中にあり、日本でも横浜中華街や神戸南京町にあるものが有名ですよね。
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なぜ、関羽は神として信仰を集めるようになったのでしょうか?
現代において関帝は主に商業の神として信仰されています。これは関羽が自分の配下の兵士を管理するのに、そろばんを用い帳簿に記録する姿から連想されたという説がある一方、関羽が元は塩の密売業を営んでいたことにちなんでいるともされます。
関羽が商業の神様と呼ばれたのはいつから?
しかし、関羽が商業の神様とみなされるようになったのはずっと後世のこと。古くは(当然といえば当然ですが)武神として信仰されていました。もともと、彼が神格化したのには、その非業の死が大きく関わっているようです。
反骨心が強い関羽の最期
関羽は反骨心が強く、目上の者の憎悪を買うような言動が多かったことが知られています。(一方、目下の者は厚く遇したとされています)関羽のそうした数々の言動は、巡り巡って最終的には、魏と呉をして反関羽の連合を組ませるという最悪の結果を招きました。
219年、魏と呉の連合軍に樊城(はんじょう)の戦いにおいて破れた関羽は捕らわれ、息子の関平と共に斬首されてしまいます。
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関羽の呪い
その同じ年、彼を討った呉の呂蒙が病死。翌年には曹操が死ぬなど、関羽の死後、彼に関わりのあった人物が立て続けに幾人も他界しています。
中国にはもともと、非業の死を遂げた人間は強い霊力を持つと信じられており、関羽の関係者が次々と死んだという事実は、多くの人に『関羽の呪い』であると印象づけたに違いありません。
三国志演義では、関羽の霊にとりつかれた呂蒙が君主である孫権につかみかかり、その直後に大量の吐血をして死ぬという場面や、孫権から関羽の生首を贈られた曹操がその首に語りかけると目を見開いて睨みつけ、結局曹操は関羽の亡霊を恐れるあまりに衰弱死ししてしまう、という顛末が描かれています。
こうして、関羽は超自然的な存在として認識されるようになり、人々の間で神格化されていったようです。
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関羽の存在は忠義の士のシンボルとして利用しやすい
一方、関羽という存在は忠義の士のシンボルとして、為政者にとっては利用しやすいものでした。歴代の王朝は民衆における関羽人気を利用するため、競って関羽に神号を追贈していきました。
明の時代には「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」、「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」清の時代には「忠義神武関聖大帝」「忠義神武霊佑関聖大帝」「忠義神武霊佑仁勇関聖大帝」「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」といった号が贈られました。こうして、時代を経るにつれ、関羽は神様として大衆の信仰対象として根付いていったのです。
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関羽を祀る『関帝廟(かんていびょう)』は日本にもある
横浜中華街にある関帝廟では、関羽の誕生日である旧暦6月24日(2014年は7月20日)に、関聖帝君の生誕を祝う記念行事としてパレードを行っています。三国志ファン、関羽ファンの方は、一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
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