兄弟の中で最も秀でた人、あるいはたくさんの中で
最も優れた物のことを『白眉』と言います。
この『白眉』の語源になった人物が、蜀の劉備玄徳に仕えた馬良(馬良)です。
馬氏の五常とは?
蜀に、馬氏の5人兄弟がいました。
兄弟全員、字名(あざな)に『常』という字が付くことから『馬氏の五常』とも呼ばれました。
馬良の字名は季常と言い、『馬氏の五常』の四男とされています。
劉備が荊州を支配下におくと、弟の馬謖(ばしょく)と共に劉備に取り立てられました。
劉備が益州に移って後も、荊州の留守を預かりました。
諸葛孔明を「尊兄」と呼び、二人は義兄弟の契を結んでいたとされています。
馬良の人生
222年、『夷陵の戦い』として知られる蜀と呉の戦いに従軍、
異民族を呉との戦いに協力させる任を与えられると、馬良はその任をこなし、異民族を蜀に帰伏させることに成功しました。
しかしその後、劉備率いる蜀軍は陸遜(りくそん)率いる呉軍に敗北、馬良も戦死してしまいます。三国志演義では、呉軍と対峙する劉備の布陣に疑問を抱き、蜀の都、成都に残っていた孔明の元へ意見を求めるために赴きます。
孔明は劉備の布陣の欠陥に気付き、急ぎ馬良を劉備の元に戻らせますが時すでに遅く、蜀軍は大敗を喫してしまいます。
史実とは異なり、馬良は夷陵の戦いでは死なず、後に孔明の南蛮征伐と時期を前後して病死したことになっています。
恵まれた才能の持ち主・馬良
馬良は5人兄弟の中でも最も才覚に恵まれた人物であると言われました。
彼の眉には白髪が混ざっていたことから『白眉』とアダ名され、人々は馬良を称えるのに「馬氏の五常、白眉最も良し」と言ったとされています。
これが故事成語『白眉』の語源です。
「馬氏の五常」のうち、氏名や来歴が明らかになっているのは四男の馬良と五男の馬謖だけで、残りの三人の兄弟については歴史的資料が残されていません。
弟・馬謖はどうだったの?
馬謖もまた、兄の馬良に劣らぬ才覚の持ち主であったようです。
弁舌に優れ、孔明は彼のことを高く評価しましたが、劉備は馬謖を信頼しませんでした。
劉備はその死に当たり孔明に「馬謖は口先だけの男だから重要な職につけてはいけない」と戒めましたが、
彼の死後、孔明は馬謖を自分の幕僚として登用します。
孔明が第一次北伐の兵を上げた時、彼は馬謖に戦略的要地である街亭(がいてい)の守備を命じます。
孔明は道筋を押さえるよう、馬謖に命じていましたが、自身の才覚に溺れる馬謖はその命令に背き、山頂に布陣してしまいます。
結果、馬謖率いる蜀軍は水路を断たれて孤立、惨敗してしまいます。
戦略的要地を失った孔明は、北伐の兵を退かざるをえませんでした。
有名な「泣いて馬謖を斬る」
孔明は敗戦の責任を問うため、馬謖を処刑しますが、自分が目を掛けた馬謖を手にかけることに涙したと言います。
この故事から、“どんなに優秀な者でも法や規律に従い処断しなければいけない”ことを指す『泣いて馬謖を斬る』と言う故事成語が生まれました。
三国志演義では、孔明は馬謖のためにではなく、劉備の遺言に背いて馬謖を重職に用いたことへの後悔で泣いたとされています。
兄、馬良はその優秀さを後世に讃えられ、弟の馬謖はその失敗と責任で歴史に名を残してしまいました。
ずいぶん、皮肉なことですよね。
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