董卓が長安へ撤退したことで、事実上解散となった連合軍ですが、
彼らは各地で力を蓄え、強大な勢力となっていきます。
中でも、大きくなったのは二者で、
冀州(きしゅう)の袁紹と、南陽(なんよう)の袁術でした。
孫堅はこの時袁術の配下でした。
袁紹と袁術の二者は異母兄弟(従兄ともいいます)でありながら、
対立を深めていくのです。
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遠交近攻の計
袁紹は、荊州(けいしゅう)の劉表と手を組みます。
袁術は、幽州(ゆうしゅう)の公孫瓚と手を組みます。
おや?
袁紹の冀州と公孫瓚の幽州は隣同士です。
対して、袁術と劉表は、中国の南部同士です。
この二者が手を組んだ方が、一緒に戦いやすいような……?
実はこれは、「遠交近攻(えんこうきんこう)の計」といい、
遠国と同盟を組んで、近隣の国を挟み撃ちして攻めるという策なのです。
有名なところでは、秦はこの計を用いて中国を統一しました。
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孫堅と劉表の確執
連合軍の解散とともに、玉璽を持って帰国した孫堅は、
その帰り道で、袁紹の息のかかった劉表にさんざんにやられて、
兵力の半数を失ってしまいます。
そして二年後、その雪辱を果たす時がやってきました。
かつての上司袁術の口車に乗せられて、孫堅は劉表と戦うべく、
荊州へ出陣します。
初めは、孫堅の圧勝でした。
しかし、敵将の黄祖、呂公を深追いしすぎた孫堅は、
ただ一騎で硯山に登り、体に矢を何本も射かけられて絶命します。
(落石の計にあったという説もあります)
享年37歳でした。
孫堅はパパのイメージがありますが、実は曹操よりも年下です。
この時、息子の孫策は17歳。
『三国志演義』では、この後、孫策が父のかたき討ちに奮闘します。
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孫堅のかたき討ち
このとき荊州に同行していた長男の孫策は、父のかたき討ちを
見事に成し遂げます。
奮闘の末、呂公を討ち取り、さらに黄祖を捕虜にして、
父の遺体と交換し、江東に帰って手厚く葬ります。
また、のちに、今度は次男の孫権により、黄祖は討たれることに
なります。
黄祖の首は、孫堅の墓前に供えられました。
この記事を書いた人:東方明珠
こんにちは。とうほう めいしゅです。
中国は上海の雰囲気が好きなので、テレビ塔の「トンファンミンジュ」を名乗っています。
もともと『水滸伝』の大ファンで、『三国志』に興味を持ったのは、アーケードゲーム「三国志大戦」がきっかけです。
当時はゲームセンターに通いつめました!
まだまだ中国史について勉強中ですが、精いっぱい面白いことを探してお伝えしたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。