曹操(そうそう)が、袁紹の配下の武将として袁術や陶謙、劉備との戦いに明け暮れている頃華北の兗州では、大事件が起きていました。
一度は鎮圧された、黄巾賊が再び勢いを盛り返し、30万人という大軍を組織して兗州を治めていた刺史劉岱に挑んできたのです。
どうして、張角を失った黄巾賊が、息を吹き返したかと言いますと、それは、彼等が組織する「方」という組織に関係があります。
方は、1万人前後の人間の集団で太平道を信仰し共同生活を送っていました。もちろん、方には、外部からの迫害に対応する為に武装組織があります。
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太平道は生きていた
張角が死んでも太平道という宗教は生き残り方というライフスタイルは残っていたのです。特に兗州は、張角が最初に兵を挙げた場所なので、黄巾賊の勢いも盛んでした。
兗州の刺史である劉岱は、「黄巾賊は勢い盛んで、数も多い籠城して援軍を待ちましょう」という部下の鮑信の助言を退けて城外に打って出て戦死します。
ここに兗州には太守がいないという異常事態が発生しました。当時、曹操の参謀だった陳宮は、これを千載一遇のチャンスと見ます。曹操が空席の兗州刺史になれば、州の国力を丸々手に入れて、基盤を持つ事が出来るからです。
陳宮は残された鮑信と折衝して、曹操を兗州城に入れる事に成功します。しかし、ここで問題になるのは30万人を数える黄巾賊です。
曹操は、ここは頑張って戦い、黄巾賊を降伏させました。
曹操、黄巾賊を吸収する
通常ならば、黄巾賊は捕えた分だけ皆殺しにするのが通例ですが、曹操は、そうはしませんでした。降伏した、30万の兵力を吸収すると同時に、100万人という戦争流民を兗州に導きいれる事に成功したのです。
しかし、これだけでは、過剰な兵力と難民を抱えて、曹操は自滅してしまいます。そこで、曹操は、後漢の光武帝が採用した屯田兵を採用しました。
屯田兵って何?
屯田兵とは戦争が無い時には農民、戦時には兵士になる半農半兵です。曹操は、黄巾賊30万人と戦争流民、100万人に荒廃した農地を開墾させ広大な土地を切り開いていったのです。
後漢の末期、5000万人を数えた人口は、黄巾の乱以後は、どんどん低下していき、西暦200年には僅か800万人に減少していました。
この800万人の中の100万を曹操は手中にし、さらに宗教を中心に団結している黄巾賊の兵30万を吸収したのです。全体でも800万人しかいない人口の8分1を手中にした曹操が、天下に王手を掛けたのは自然の成り行きだったのです。
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