桃園3兄弟の末弟、張飛(ちょうひ)は、暴れん坊のイメージがあり、
どんぐりまなこで、虎ヒゲと、美男子でもないので、男子ウケは兎も角、
女子にはもてない感じがしますが、そんな彼にも妻がいました。
しかも記録によると、張飛の妻は、あの魏の名将、夏候淵(かこうえん)の
姪だったそのように記録されている文書もあるのです。
それは陳寿(ちんじゅ)の三国志に注釈をつけた裴松之(はいしょうし)が、
夏候淵について記した魏略で、そこには以下のような記述があります。
「出行樵採,為張飛所得。飛知其良家女,遂以為妻」
この漢文の意味は?
この漢文の意味ですが、
山で薪を拾っている時に、張飛の得る所となる、張飛は、
その女を良家の出であると知り、これを妻とするです。
夏候淵の伝にあるのなら、それが夏候家の女である事は、
殆ど疑いがないでしょう。
張飛の妻はどんな人だったの?
また、伝承によると、張飛が妻にした夏候家の女は、
13歳から、14歳程度だったとも言われています。
張飛は西暦167年の生まれとされていますが、
劉備や関羽と共に、曹操の厄介になっていた西暦200年頃は、
33歳という事になります。
おおっ!これじゃロ○コン、いえいえ、早合点してはいけません。
当時は一般に結婚するのが早く、13、14歳で嫁に行くのも、
別に珍しい事では無かったのです。
しかし、西暦200年頃と言えば、劉備(りゅうび)が董承(とうしょう)
の考えた曹操暗殺の計略に乗ったのが、曹操(そうそう)にばれようとする寸前です。
劉備は、これを逃れる為に、曹操が袁術討伐の命を劉備と朱霊(しゅれい)に下すと
これを幸いに曹操の前からとんずらしようとしていました。
もちろん張飛も一緒です、そこで張飛は、自分が気に入った、
夏候家の娘を強引にか、説得してか、妻にして駆け落ちしたのです。
こうして、夏候淵の姪は夏候夫人となりました。
張飛と駆け落ちした夏候夫人
この夏候夫人の娘は、後に劉禅の皇后、敬哀(けいあい)皇后張氏となります。
夏候夫人は、蜀皇帝に連なる外戚になったという事ですね。
後に蜀には、魏の夏候淵の息子である夏候覇(かこうは)が暗殺を恐れて
投降してきますが、蜀は、敬哀皇后の血縁者にあたる夏候覇を重んじ、
車騎将軍に任じられた以外にも死後には諡号(しごう)を与えた
というように書かれているのです。
夏候覇は蜀での異例の処遇
諡号は、孔明(こうめい)や関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)のような
蜀の限られた功臣にしか与えられていないので、
途中で亡命してきた夏候覇の処遇としては異例の高さです。
このような事も、夏候夫人、そして敬哀皇后との関係だと考えられます。
ただ、張飛の夫人達に関しては、確かな記録がなく、夏候夫人は何歳まで
生きたのか、他に夫人がいたのか?様々な事が謎です。
今日も三国志、ご馳走様でした、、、
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