三国志ファンの皆さんには、大方、バカで短気で大酒飲みの代表として扱われている張飛(ちょうひ)ですが、それは三国志演義だけのイメージです。
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正史の張飛はどんな人物だったの?
正史においての張飛は、確かに短気で粗暴ではありますが、一方で感情のままに行動するばかりではなく、相手を計略に嵌めて、知力を駆使して捕縛するという離れ技もやってのけます。一番有名なのは、漢中攻略戦で張郃(ちょうこう)を破った時でしょう。
漢中攻略戦での張飛の戦略
張郃は宕渠・蒙頭・蕩石に軍を進めて巴蜀の住民を奪い漢中へ移住させようとして、張飛と激突しますが、張飛は張郃と50日間にわたって、睨みあいを続けた後、精鋭1万騎を率いて、山の狭い間道に張郃を誘いこみます。張郃は軍勢が多かったので、細長い山道で軍を展開できず、張飛の軍勢に補給線を分断されて、軍が壊滅し、自身は数十名の部下と共に逃げのびます。
入蜀後の張飛は戦は負けなし
また、張飛は、それ以前の劉備(りゅうび)の入蜀の時にも一度も敗北せず、連戦連勝しており、劉備はその功績を諸葛亮(しょかつりょう)法正(ほうせい)関羽(かんう)と同等であると認め金五百斤・銀千斤・五千万両・綿千匹の褒賞を与えた上に張飛を巴西太守に任じました。上の記述を見ると、筋肉バカの張飛のイメージが壊れてしまいますが、では、どうして張飛はおバカキャラになってしまったのでしょう?
何で張飛はお馬鹿キャラにで描かれてるの?
やはり、それは、三国志演義成立以前の、民間伝承に関係があります。実は張飛は、民間に人気がある武将だったのです。中国には、張飛を笑い話のオチに使ったような話があります。例えば、孔明の庵で、張飛がとんちんかんな蒟蒻問答を行って孔明を感心させてしまったり・・
艶笑話では、楊貴妃の骸を丁重に葬った男が恩返しに来た、楊貴妃と一晩を共にしたのを羨ましがった隣の男が、必死に野ざらしの骸を探して見つけた骨を丁重に埋葬したら、夜に張飛がやってきて、拙者の尻を貸そうと言ってきたりします。
このようなバカで短気で、大酒飲みの張飛のイメージは、長い年月で完全にキャラ立ちしてしまい、今更、三国志演義で
「実は張飛は知将でした」とキャラを変えてしまっても、もう大衆には違和感しか残らなかったのです。
大衆に読まれる目的で描かれた三国志演義
三国志演義は大衆に読まれる事を目的に発展したので、作品の中には、昔ながらの酒で失敗する張飛と、計略を用いて敵将を打ち破る、本来の張飛が同居してしまったのです。しかし、そんな二つの張飛のイメージも、部下に対して愛情がなく、厳しい罰を与える悪い癖は共通していて、最期もそのせいで寝首をかかれて死んでしまうのです。
張飛は行政官としても優秀だった?(kawa註)2018/11/15追記
実は張飛は知将だったばかりではなく、行政官僚としても優秀だったかも知れません。その理由は、漢中王になった劉備は張飛を右将軍、仮節とし、さらに西暦221年に張飛を車騎将軍、西郷侯に封じていますが、同時に司隸校尉(しれいこうい)を兼務させているのです。この司隸校尉は、朝廷内の大臣を皇族を含めて監視する役割に加え、帝都である成都周辺の治安維持を任される重要なポストでした。今で言えば警視総監みたいなものでしょうか?
張飛が警視総監、余程人がいないんだろうか?と思ってしまいますが、時は西暦221年で関羽を除けば主だった蜀の将軍は健在です。幾ら張飛が外戚とはいえ脳味噌筋肉の馬鹿に帝都の治安を任せはしないでしょう。張飛は司隸校尉以前にも、巴蜀の防衛の要である漢中太守に成るのが当然だと周囲に思われていました。この時は、劉備が魏延を抜擢した事で流れましたが、太守を任して問題ないと思われる程に張飛の手腕は信頼されたのです。
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