孫尚香(そん・しょうこう)と言えば、三国無双をプレイしている人にはお馴染みの女傑です。彼女は、呉の孫権(そんけん)の妹(異母妹)であり、また、呉が劉備(りゅうび)との同盟を強固なものとする為に政略結婚で劉備の夫人になり蜀に入った事でも知られています。
さて、三国志演義では、30歳位年の差がある劉備と仲の睦まじいかった事そして、腰弓(きょうきゅう)姫と呼ばれた男勝りの武芸の達人だった事になっているこの孫尚香ですが、実際はどうだったのでしょうか?
孫尚香はどんな人だったの?
不思議な事に、孫尚香は、孫権の妹という重要なポジションにいるにも関わらず、呉書には一切の記述がなく、蜀書法正伝にまとまった記述が存在しています。それによると、彼女は、才気豪勇の点で兄の面影があったとされています。そして、演義と同様に、彼女は侍女達を武装させて周辺に置いており、劉備は、寝室に通うのを非常に恐れたともあるようです。
曹操(そうそう)とさえ、対等に張り合う度胸の持ち主の劉備が怖がる程の侍女ってどんな侍女でしょうか?見たいような見たくないような、、アマゾネスという言葉が、頭に浮かんでしまいますね。さて、このような正史の記録から見ると、孫尚香が、男勝りで武勇に優れていたというのは、事実であるようです。
孫尚香と劉備は本当に仲が良かったの?
では、劉備との仲が睦まじかった、、というのはどうなのでしょう?
これについては、孔明(こうめい)の衝撃的な発言が残っています。
「北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があって、それでも我が君が大業を遂げたのはひとえに法孝直の功績である」
ここで、孔明は、法正(ほうせい)を褒めているのですが、劉備の夫人、孫尚香を曹操、孫権に匹敵する脅威としています。
この記述を見る限り、蜀に入ってからは、それまでのじゃじゃ馬を卒業して夫劉備に尽くす孫尚香のイメージは出てきません。おそらく、蜀でもワガママ放題であったか、、或いは呉の孫権と連携して、様々な策謀を弄していたか、、真実は、いずれであれ、劉備やその家臣にとっては、扱いづらい人物であったようです。
劉備が益州を平定後、呉との友好関係は必要なくなる
劉備が益州を平定すると、劉備は、根拠地を得て、呉との関係をそこまで友好的にする必要が無くなります。そこで、孫尚香は、呉に帰るのですがこの時に劉備の皇太子だった劉禅も一緒に連れ帰ろうとします。もちろん、劉禅は徐夫人と劉備の間の子供で、孫夫人とは、血縁がない赤の他人です。緊急事態発生、人さらいです(笑)
それを察知した孔明は急いで、趙雲を派遣して、長江を封鎖しました。孫夫人は、これでは帰れないのでやむなく劉禅を解放して、一人だけで呉に帰ってしまいます。
演義と正史の孫尚香の役目
ちなみに演義でも、このシーンはあり、孫夫人の母が危篤だという手紙を携えた呉の周善という武将が、蜀にやってきて、夫人に帰国を促しその次いでに劉禅も連れ去ろうとして、趙雲と張飛に察知され、周善は斬り殺されてしまうというものです。ここでは、孫尚香は、人さらいとは無関係となっています。正史にしても演義にしても、劉備が益州を領有した段階で、孫尚香の役目は終わり、彼女は呉に帰国しています。その後の彼女がどうなったのか?歴史は何も伝えていません。しかし、劉備の妻となってもしおらしい良妻になる事なく、どこまでも呉の利益を考えて動いた男勝りの孫尚香は、今の世の中でも輝きを失わない自由な女性のイメージを感じますね。
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