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この記事の目次
陸遜は戦後のアフターフォローも一流
陸遜は、新しく得た荊州の人民に、孫権からもらった金銀財宝を惜しまず、分け与えて人心を掴みます。荊州の人々は、こぞって陸遜に協力して蜀の残党や支援者を掴まえるのに協力したので、捕まえたり、斬ったり、捕虜にした人数は数万に上りました。このように陸遜は戦が上手いだけではなく戦後のアフターフォローも万全で、人心を掴むのが得意でした。
反乱の芽も未然に防ぐ陸遜
荊州占領後、新しく加入した荊州出身者が手柄を挙げられないのに不満を持っているのを知ると、陸遜は、これを孫権に上奏します。以後、荊州出身者も、内政や軍事に使われるようになり、不満の声は消えました。こういう、新参者が置かれがちな疎外感にも、陸遜は敏感に目配りをし反乱の芽を未然に摘んでいたのです。
夷陵の戦いが始まる
さて、呉の呂蒙・陸遜に関羽が討たれた事で、蜀と呉の同盟は反故になり、劉備は自ら大軍を率いて、荊州に進撃を開始します。これが、後世に名高い夷陵の戦いです。
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陸遜は大都督として迎え撃つが他将軍と折り合いが合わない
陸遜は、大都督として、これを迎え撃ちますが、陸遜の配下の将軍は、いずれも、陸遜以前からの名将、猛将揃いでした。40歳になったばかりの陸遜は、彼等に侮られ、命令違反や、守ってばかりで、一向に蜀軍に攻勢を掛けない陸遜を「臆病者」「腰抜け」と公然と非難する人間も現れます。
呉の陣営は大いに荒れて、陸遜は剣を抜いて、これを抑えつける場面もありましたが、陸遜は孫権が動揺しないように、このような荒れている呉の陣営の事を報告しませんでした。
火計を駆使して、蜀軍を焼き払う
やがて、劉備が呉の領地奥深くまで進攻して戦線が伸びきると、陸遜は、攻勢に転じ、火計を駆使して、蜀軍を焼き払います。劉備は、なすすべなく退却して、白帝城に入ります。
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