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この記事の目次
陸遜は異民族の山越討伐に出る
陸遜は、孫権に願い出て、呉に従わない山越の頭目潘臨(はんりん)を志願兵を募って、討伐に行き、密林の奥地でこれを撃破します。この時に、陸遜は山越から2000の兵力を得て、凱旋します。孫権は、陸遜の鮮やかな手腕を誉め、孫策の娘を陸遜に与えて縁戚にしました。さらに、孫権は今後の呉について進むべき進路を陸遜に聞きます。
孫権は陸遜に今後の呉の未来を聞いてみた
陸遜:「呉の安定には、山越民族の制圧と軍事力の強化が急務です。それには、山越民族を滅ぼすのではなく懐柔して味方にして、これを呉の兵力として活用する事です。そうすれば、異民族を鎮圧しつつ、軍事力を強化できましょう」
孫権は、もっともであるとヒザを叩いて陸遜をしかるべき地位につけます。
陸遜は若い頃から功績をコツコツと立てていた
その頃、曹操(そうそう)の煽動により丹陽という土地で費桟(ひさん)という男が反乱を起します。費桟の軍は、大軍で陸遜は寡兵でしたが、陸遜は冷静で、夜襲を掛けて費桟の軍を撃ち破りました。陸遜は、さらに東方の治安の悪い3つの郡で募兵を行いつつ、呉に従わない人々を懐柔していき、結果、数万という兵力を吸収します。力に劣るものは、民戸に編入して農民にしました。
三国志演義では、夷陵の戦いから、突然出てきたような扱いの陸遜ですが、実は若い頃から実績を積み重ねているのが分かります。
呂蒙も陸遜が跡を継ぐ人物だと確信する
西暦219年、荊州で関羽と対峙していた呂蒙(りょもう)は病を得て、建業に帰還しますが、その途中で陸遜は呂蒙に面会を願い出て、関羽を破り、荊州を手に入れる秘策を告げました。
呂蒙は、話を聞くにつれて、陸遜が自分の跡を継いで、呉を引っ張るに足る人物だと確信しました。そして孫権に、自分が亡き後は、陸遜を引き立てるように進言します
陸遜は関羽を討ち取る
陸遜は呂蒙の引き立てを受けて、共同で作戦を展開し、わざと、陸遜は関羽を誉めたたえる手紙を書いて、自分を臆病に見せて
関羽を油断させ、その隙を突いて関羽を討ち取りました。
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