凌統(りょうとう)ってどんな人?本当は甘寧と仲直りしてないよ

2015年9月24日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫権、凌統の手を握り締め、ワシにはお前がいると励ます

 

凌統の目から溢れる涙を孫権は自らの袖で拭いました。

 

「公績、死んだものは戻ってはこない、、だが、わしにはお前がいるお前が還ってきただけでも、わしは嬉しいのだ」

 

孫権は言うと、凌統の衣服を自ら脱がせ傷だらけの体に、良薬を塗らせました。これにより、凌統は瀕死の状態ながら死を免れたとの事です。凌統は偏将軍に任命され、1万という兵力を率いる立場になります。

 

凌統は、合肥の戦いの後遺症で死んだ?

凌統

 

凌統は、三国志呉書、凌統伝では、西暦237年に49歳で死んだという事になっています。ところが、同じ呉書、駱統(らくとう)伝では、凌統の死後、まだ凌統の息子が幼かったので駱統が軍を引き継いだとあります。ところが、駱統は西暦228年に死んでいると推定されるので西暦237年に死んだという凌統の記録と合わないのです。

 

一方で唐の時代に書かれた建康実録(けんこうじつろく)には、凌統は西暦217年に29歳で死んだと書かれています。また、凌統には二人の子供がいたそうですが、それは幼かったので孫権が宮中で養育したとされています。それが事実なら、49歳で死んだ凌統に成人しない子供が2名いたという事になり、当時の常識から考えると少し変です。

 

凌統は、合肥の戦の傷が癒えず、西暦217年に死んだ

 

また、凌統は西暦215年以後には、昇進したという記録がありません。あれほどの手柄を立てた凌統が死ぬ237年まで22年間、一つの手柄も昇進もないとは、とても考えにくいのです。なので、凌統の死は唐の記録の西暦217年が正しく、凌統は29歳で、恐らく合肥の戦いの傷が元で死んだのではないでしょうか?

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

ところで、甘寧と凌統は、凌統の父を甘寧が射殺した事で犬猿の仲だと知られていますが、濡須口(じゅすこう)の戦いで甘寧が凌統のピンチを救い、仲直りしたとされています。しかし、実際の呉書、凌統伝には、そのような事は書かれていません。そればかりか、両者は宴席で凌統が剣舞を披露すると、甘寧も戟を持って応じ、呂蒙(りょもう)が止めないと殺し合いに発展しかねない程に険悪だったようです。

 

孫権は二人が居合わせないように甘寧を半州に移らせたと言います。やはり、親父を殺された恨みは深く、実際にはそんな簡単に許すとかにはならないんじゃあないですかね・・・。

 

今日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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