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孫権、凌統の手を握り締め、ワシにはお前がいると励ます
凌統の目から溢れる涙を孫権は自らの袖で拭いました。
「公績、死んだものは戻ってはこない、、だが、わしにはお前がいるお前が還ってきただけでも、わしは嬉しいのだ」
孫権は言うと、凌統の衣服を自ら脱がせ傷だらけの体に、良薬を塗らせました。これにより、凌統は瀕死の状態ながら死を免れたとの事です。凌統は偏将軍に任命され、1万という兵力を率いる立場になります。
凌統は、合肥の戦いの後遺症で死んだ?
凌統は、三国志呉書、凌統伝では、西暦237年に49歳で死んだという事になっています。ところが、同じ呉書、駱統(らくとう)伝では、凌統の死後、まだ凌統の息子が幼かったので駱統が軍を引き継いだとあります。ところが、駱統は西暦228年に死んでいると推定されるので西暦237年に死んだという凌統の記録と合わないのです。
一方で唐の時代に書かれた建康実録(けんこうじつろく)には、凌統は西暦217年に29歳で死んだと書かれています。また、凌統には二人の子供がいたそうですが、それは幼かったので孫権が宮中で養育したとされています。それが事実なら、49歳で死んだ凌統に成人しない子供が2名いたという事になり、当時の常識から考えると少し変です。
凌統は、合肥の戦の傷が癒えず、西暦217年に死んだ
また、凌統は西暦215年以後には、昇進したという記録がありません。あれほどの手柄を立てた凌統が死ぬ237年まで22年間、一つの手柄も昇進もないとは、とても考えにくいのです。なので、凌統の死は唐の記録の西暦217年が正しく、凌統は29歳で、恐らく合肥の戦いの傷が元で死んだのではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
ところで、甘寧と凌統は、凌統の父を甘寧が射殺した事で犬猿の仲だと知られていますが、濡須口(じゅすこう)の戦いで甘寧が凌統のピンチを救い、仲直りしたとされています。しかし、実際の呉書、凌統伝には、そのような事は書かれていません。そればかりか、両者は宴席で凌統が剣舞を披露すると、甘寧も戟を持って応じ、呂蒙(りょもう)が止めないと殺し合いに発展しかねない程に険悪だったようです。
孫権は二人が居合わせないように甘寧を半州に移らせたと言います。やはり、親父を殺された恨みは深く、実際にはそんな簡単に許すとかにはならないんじゃあないですかね・・・。
今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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