『歴史にifは禁物』とは良く言われる言葉ですね。すでに過去の出来事として確定している歴史に「もし」という仮定を持ち込んだところで結果が変わるわけでもなし、それを語っても詮なきこと……。
……というのは分からないでもありませんが、しかし誰でも一度は「もしあの時にアレがああなっていたら、どうなっていただろう?」と想像したことがあるはずです。
そんな発想から考えてみる『三国志if』。後漢王朝末期から三国時代へ至るターニングポイントとなった『官渡の戦い』その結果が違っていたなら、歴史はどう変わっていたでしょうか?
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この記事の目次
その前に、『官渡の戦い』って、なに?
本題に入る前に、そもそも「官渡の戦い」とはどんな戦いだったのか、それをおさらいしておきましょう。
「官渡の戦い」とは、後漢王朝末期の西暦200年、当時華北に勢力を張っていた袁紹と曹操との間で起こった戦いのことです。この戦いに投入された戦力は袁紹側が70万に対して曹操は7万と圧倒的に不利な状況にありましたが、彼は奇跡の逆転劇でこの大差を覆して袁紹に勝利、華北での支配権を確固たるものにします。
華北とは、中国大陸を流れる黄河の中流域から下流域にあたる地方を意味します。当時の政治・文化の中心地であり、そこを手中に収めることは、実質的に天下を手中に収めるのと同義であると言えました。
皇帝を擁し、華北を支配下においた曹操はその支配を盤石のものとします。「官渡の戦い」が後漢末の時代から三国時代に至る重要なターニングポイントであったことに、異を唱える人はいないでしょう。
詳しくは『44話:複雑な官渡の戦いを時系列で紹介』を御覧ください。
もし、袁紹が官渡の戦いに勝っていたら?
開戦当初、袁紹は曹操に対しおよそ10倍の大軍を擁していました。もし袁紹がこの大軍を信頼に足る配下の将軍に任せ、いくつかの軍に分けて曹操軍を半包囲するかたちで急襲すれば、案外あっさりと袁紹が勝利をつかんでいた可能性は十分あるでしょう。
曹操は皇帝である献帝を擁していましたから、当然、その身は袁紹の元に移ることになります。問題は、ここで袁紹が献帝に禅譲を迫ったり、帝位を簒奪するかどうかですが、筆者個人としては、その可能性は低いと考えます。
この頃、漢王朝の支配はもはや形骸化していたことは確かですが、その威厳が完全に絶たれるまでには至っていませんでした。なにより袁紹は、親族に当たる袁術が皇帝を僭称した挙句滅亡した様を目の当たりにしています。いきなり献帝から帝位を奪うような真似はしなかったのではないでしょうか。
袁紹は南方へは進出しない?
曹操は袁紹を滅ぼし、異民族を征して北方の支配を固めると、軍を取って返して南方に残っていた勢力を討伐へと向かっています。これは曹操ならではの野心と覇気あればこその転身といえますが、それでは華北統一後の袁紹は同じく南方の統一へ向かったでしょうか?
ここでは袁紹配下に、官渡の戦いを制することのできた優秀な配下がいたことを前提として話を進めていますから、官渡以降の袁紹が十分それを成しうるだけの実力を持っていたことは間違いありません。
しかし、問題は袁紹自身の『やる気』です。上記した通り、この時期後漢王朝の威信は未だ完全に潰えるには至っていません。袁紹はあくまで献帝の威を借りて天下に号令しようとする可能性は十分考えられます。
また、この時期袁紹はすでに50歳台に差し掛かっています。袁家の頭首としてすでに十分な権勢を手に入れ、一方で老境に差し掛かった袁紹が更に積極的な政策に打って出る可能性は低いと考えられます。
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袁紹の官渡勝利が劉備と孫権の全面戦争を呼ぶ?
袁紹が南方への進出をしない場合、南方での情勢も劇的に変化するでしょう。
孫権は北方からの脅威がなくなったことで、西の荊州を手中にすべく全面攻勢に転じ、荊州を治めていた劉表は食客であった劉備にその撃退を依頼、荊州を巡る劉備と孫権の全面戦争が起こることは容易に想像できます。
劉備であれ孫権であれ、その勝者が荊州と揚州を支配することになります。荊州の西方、益州を治める劉璋はそもそも覇気のない人物ですので、そのまま勝者の元に下り、中国は劉備か孫権の治める南方と、袁紹の華北が南北を分けて支配する南北朝時代に突入したかもしれません。
後は西の果て、涼州を支配下においていた馬騰がどう動くかですが……。
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官渡の戦いの決着がつかなかった場合は?
では、官渡の戦いで曹操と袁紹の決着がつかず、膠着状態に陥った場合はどうでしょうか?
長期戦に陥った場合、曹操はかなり危険な状況に追い込まれることになります。彼が南方へ兵力を投入できないことに付け込んだ孫権がその背後を急襲し、曹操は袁紹と孫権の挟撃を受けて滅亡の憂き目にあいます。華北は再び混乱状態に陥るでしょう。
孫権と袁紹の対立を好機として、劉備は荊州と益州を得、歴史通り蜀を成立させるかもしれません。曹操の代わりに袁紹によって建国された魏と呉、蜀による三国時代の到来です。
袁紹にはもうひとつの選択肢が……。
ここでもう一つの可能性が考えられます。それは、袁紹が官渡で曹操と対峙しつつ、別働隊を持って曹操の拠点である許昌を急襲し、献帝を奪取することに成功した場合です。
袁紹は献帝からの勅命という形で曹操に停戦を命じ、曹操はやむなく兵を退くことになります。
しかし、覇気にかける袁紹はその後も実力ではなく献帝の威を借りて天下に号令をしようとして手をこまぬいた結果、中国全土は袁紹、曹操、劉備、孫権ら群雄が分割統治し覇を争う時代、後戦国時代とでも呼ぶべき時代に突入したかもしれません。
三国志ライター 石川克世の妄想
ここで紹介しました内容は、すべて筆者個人の妄想の域を出ない話であり、何の根拠もございません。内容を鵜呑みになさらないよう、お願いいたします(自爆)しかし、たまにはこういう想像をして遊ぶのも楽しいではありませんか。皆さんはどんな『三国志if』を想像されるでしょうか?