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孔明の遺体を守りつつ、反逆者魏延を討伐する
西暦234年、孔明は五丈原で病没します。それにより、以前から仲が悪かった楊儀(ようぎ)と魏延(ぎえん)の対立が表面化し、孔明の遺言どおりに遺体を引きつれて撤退を主張する楊儀と北伐の継続を訴える魏延が蜀軍を二つに裂いてしまいます。この状態を魏に知られては大変な事です、王平は楊儀の側につき、先鋒として、魏延の兵に大声で呼びかけます。
王平「お前達は、丞相が亡くなって、まだ死体も冷たくならない間に仲間割れをして恥ずかしくないのか!!」
魏延の兵士は、本当は嫌々ながら魏延についていたので、この言葉で、続々と魏延を見限り、楊儀の側につきます。
魏延は、僅かな一族を引きつれて逃走する途中に馬岱(ばたい)に斬られて最後を迎えます。
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孔明没後も、蜀の将軍として活躍する
北伐からの撤退後の王平は、後典軍(ごてんぐん)、安漢(あんかん)将軍に昇進し呉懿(ごい)の副将として漢中に駐屯、また、漢中太守を兼任するなど、蜀の玄関口の防衛を任されます。237年に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され安漢侯に封じられその後も、前監軍(ぜんかんぐん)、鎮北(ちんほく)大将軍に昇進し、漢中の軍事と行政を任されます。
西暦244年に魏の大将軍、曹爽(そうそう)が10万の大軍で蜀に攻め込みます。この時、漢中の守備兵は3万前後でした。蜀の将は恐れて、漢中を放棄して背後で前線を立てなおすべきと進言しますが、漢中の責任者であった王平は漢中を放棄する事は蜀を危険に陥れると見抜き、自らは、前進して隘路で足止めを行い救援を待つことにします。
王平は、劉敏(りゅうびん)と杜祺(とき)を派遣して興勢山に立て籠らせ自分は黄金谷より敵が兵を進めて来たときのために後方で備えにあたります。王平軍は、そのまま魏軍を迎え撃って持久戦を行い成都から費禕(ひい)の援軍が到着すると曹爽は討伐を諦めて退却します。王平は撤退のタイミングを逃さず魏軍に反撃を加え曹爽は大ダメージを受けて何とか、魏に戻るのが精一杯でした。
この時代は、鄧芝(とうし)と馬忠(ばちゅう)がそれぞれ、蜀の東と南を守っていましたが、王平も、この二人と並んで称えられたと言われます。
ほとんど字が書けなかった王平
王平は漢中太守のような重要な職を任されましたが、異民族出身で、勉強する機会もなく、知っている漢字は10個もありませんでした。しかし、史記や漢書は他人に読んでもらって要点を理解し、命令書を出す時には、部下に口述筆記させて出しましたが全ては理路整然としていて少しも無駄が無かったようです。王平は248年に病死しました。
三国志ライターkawausoの独り言
王平と比較して、馬稷は典型的な学問秀才で机上の空論では負けなしでしたが実戦では、あっさりとタブーを冒して敗北してしまいました。一方の王平は、ほとんど学問をする機会に恵まれなかったのに、注意深く、慎重で、ついに自らの命運を誤る事なく大往生しました。こうして見ると、文字で学ぶ学問を凌駕した経験から来る王平の地頭の凄さにうなりますね。今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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