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王平(おうへい)ってどんな人?馬稷の山登りを止めようとした蜀の武将

2015年10月8日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孔明の遺体を守りつつ、反逆者魏延を討伐する

仲の悪い魏延と楊儀

 

西暦234年、孔明は五丈原で病没します。それにより、以前から仲が悪かった楊儀(ようぎ)と魏延(ぎえん)の対立が表面化し、孔明の遺言どおりに遺体を引きつれて撤退を主張する楊儀と北伐の継続を訴える魏延が蜀軍を二つに裂いてしまいます。この状態を魏に知られては大変な事です、王平は楊儀の側につき、先鋒として、魏延の兵に大声で呼びかけます。

 

王平「お前達は、丞相が亡くなって、まだ死体も冷たくならない間に仲間割れをして恥ずかしくないのか!!」

 

魏延の兵士は、本当は嫌々ながら魏延についていたので、この言葉で、続々と魏延を見限り、楊儀の側につきます。

 

「ここにいるぞ!」と言いながら魏延を切る馬岱

 

魏延は、僅かな一族を引きつれて逃走する途中に馬岱(ばたい)に斬られて最後を迎えます。

 

関連記事:魏延(ぎえん)ってどんな人?|裏切り者?それとも忠義の士?

関連記事:馬岱(ばたい)ってどんな人?実は記録がほとんどない馬超のイトコ

 

孔明没後も、蜀の将軍として活躍する

進軍する兵士b(モブ用)

 

北伐からの撤退後の王平は、後典軍(ごてんぐん)、安漢(あんかん)将軍に昇進し呉懿(ごい)の副将として漢中に駐屯、また、漢中太守を兼任するなど、蜀の玄関口の防衛を任されます。237年に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され安漢侯に封じられその後も、前監軍(ぜんかんぐん)、鎮北(ちんほく)大将軍に昇進し、漢中の軍事と行政を任されます。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

西暦244年に魏の大将軍、曹爽(そうそう)が10万の大軍で蜀に攻め込みます。この時、漢中の守備兵は3万前後でした。蜀の将は恐れて、漢中を放棄して背後で前線を立てなおすべきと進言しますが、漢中の責任者であった王平は漢中を放棄する事は蜀を危険に陥れると見抜き、自らは、前進して隘路で足止めを行い救援を待つことにします。

 

王平は、劉敏(りゅうびん)と杜祺(とき)を派遣して興勢山に立て籠らせ自分は黄金谷より敵が兵を進めて来たときのために後方で備えにあたります。王平軍は、そのまま魏軍を迎え撃って持久戦を行い成都から費禕(ひい)の援軍が到着すると曹爽は討伐を諦めて退却します。王平は撤退のタイミングを逃さず魏軍に反撃を加え曹爽は大ダメージを受けて何とか、魏に戻るのが精一杯でした。

 

鄧芝が孫権を説得

 

この時代は、鄧芝(とうし)と馬忠(ばちゅう)がそれぞれ、蜀の東と南を守っていましたが、王平も、この二人と並んで称えられたと言われます。

 

ほとんど字が書けなかった王平

水滸伝って何? 書類や本

 

王平は漢中太守のような重要な職を任されましたが、異民族出身で、勉強する機会もなく、知っている漢字は10個もありませんでした。しかし、史記や漢書は他人に読んでもらって要点を理解し、命令書を出す時には、部下に口述筆記させて出しましたが全ては理路整然としていて少しも無駄が無かったようです。王平は248年に病死しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

王平と比較して、馬稷は典型的な学問秀才で机上の空論では負けなしでしたが実戦では、あっさりとタブーを冒して敗北してしまいました。一方の王平は、ほとんど学問をする機会に恵まれなかったのに、注意深く、慎重で、ついに自らの命運を誤る事なく大往生しました。こうして見ると、文字で学ぶ学問を凌駕した経験から来る王平の地頭の凄さにうなりますね。今日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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