三国においても、蜀の人材の枯渇は深刻な問題でした。
特に、関羽(かんう)が死んだ辺りから蜀の陣営は馬超(ばちょう)、馬良(ばりょう)、法正(ほうせい)、黄忠(こうちゅう)、張飛(ちょうひ)、劉備(りゅうび)とどんどん有能な人材が倒れていきます。
その中で、王平(おうへい)はかなり後からのメンバーながら、よく諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の意図を汲んで動く事が出来る有能な将軍でした。
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元は魏の武将だった王平
王平(?~248年)は字を子均(しきん)といいます。漢民族ではなく、異民族の出身でしたが、西暦215年に曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)を降した当たりで酋長に率いられて魏将になりました。しかし、西暦218年からの定軍山の戦いで、蜀に敗れて降伏し、以後は蜀軍として戦うようになります。この辺りは、後に孔明の後継者になる姜維(きょうい)と似ている展開です。
山に登ろうとする馬稷(ばしょく)を引きとめる王平・・
孔明が北伐を開始すると、王平も、それに従い手柄を立てます。特に名高いのは記念すべき第一回の北伐の時の街亭の戦いです。孔明は当時の愛弟子である馬謖に一軍を率いさせて街亭に駐屯させ、副官として王平を置きました。
馬稷「王平、あそこに良い山があるので全軍で上ろう!」
王平「駄目です、山の上に布陣してしまうと麓を敵に包囲されたら、水を断たれて軍は壊滅します。」
馬稷「いいじゃん、ケチ、俺が司令官だぞ!見はらしがいい所でハイキングするんだい!」
というのは嘘ですが、馬稷が孔明の言いつけを無視して、山の上に布陣したのは事実です、王平は水を断たれるから危険ですと、何度も止めますが、馬稷は聞きませんでした。
敵軍の張郃(ちょうこう)は、馬稷の軍を包囲して勝利、しかし
馬稷が山頂に陣取ったのを知った張郃は喜び勇んで、街亭を包囲して水を断ちます。これで山の上の馬稷軍は渇きに苦しみ張郃軍の攻撃の前に崩壊します。ところが、王平指揮下の1000名の兵は浮足立たずに踏みとどまり、太鼓をドンドコ鳴らして、士気が高い所をアピールします。
張郃「妙だな、、たった1000人ばかりが士気が高いとは、、さては、これは孔明の罠か?」
張郃は伏兵を恐れて、それ以上先に進もうとはしませんでした。王平は隙を見て、生き残りの蜀兵をどんどん背後に下げて自身も退却します。孔明も侵攻の拠点の街亭が落ちたと聞くと撤兵を開始しました。
もし、王平が踏みとどまらなかったら、孔明の本隊も張郃に背後から、襲われる危険もありましたから負けたとはいえ王平の手柄は大きいものでした。
孔明は自身も含め、敗戦した将兵に厳しい罰を与え、特に敗戦の原因を造った馬謖は斬首しますが王平には特別の敬意を払ったと言います。
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第四次北伐、祁山の戦いでは張郃の追撃を阻止
西暦231年の第四次北伐では、孔明と共に王平も出陣、それに対して魏は司馬懿(しばい)と張郃の戦のベテランをぶつけてきます。第四次北伐も補給の不安から、蜀は撤退する事になりますが、孔明と王平は司馬懿と張郃を寄せつけずに撤退する事に成功します。この戦いでは、魏の重鎮、張郃が流れ矢に当たり戦死していますから、王平・孔明のコンビの用兵の見事さがさらに際立ちます。
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