漫画キングダムでお馴染み、戦国七雄の国ですが、この七国の内の三国は、
戦国時代に入る直前まで存在せず、代わりに超大国として晋という国がありました。
はじさんでは、キングダムでは恐らくスル―されるであろう晋について、
解説していきたいと思います。
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この記事の目次
子供の遊びで誕生した晋の前身、唐(とう)
晋が成立したのは、冗談のような偶然によるものでした。
名君として知られる周の成王(せいおう)は、子供の頃に弟の虞(ぐ)と
封建の儀の真似事をして遊んでいました。
成王は木の枝を取り、虞の頭上にかざして「お前に領地を授けよう」と言いました。
遊びは、それで終わりで成王は自分の部屋に帰ってきましたが
宰相の尹佚(いんちつ)がやってきて「では虞君をどこの土地に封じましょう?」
と言ってきました。
成王は「尹佚、あれは、ただの遊びなんだよ」と笑いますが尹佚は首を振ります。
「天子には冗談という言葉はありません、一度口から出した事は
決して覆す事は出来ないのです」
ちょうど、その時、補佐役の周公旦(しゅうこう・たん)が唐(とう)の土地を征伐して
帰還してきます、そこで成王は弟の虞を唐の土地に封じる事にしました。
晋(しん)という国の始まり
虞は唐叔虞(とう・しゅくぐ)と名乗り、唐侯として土地に赴任する事になります。
虞の子である燮(きょう)の時に汾水(ぶんすい)の支流である
晋水(しんすい)に、ちなんで国名を唐から晋に変更し都を翼(よく)とします。
これが晋という国の始まりなのです。
晋は、分家に乗っ取られる
晋の11代は文侯(ぶんこう)という人物でした。
彼には、成師(せいし)という優れた弟がいたようです。
家臣達にも、文侯の名が仇(きゅう)という縁起がよくないものである事から、
弟の成師に期待するものが多かったようです。
しかし、文侯も弟に負けないように努力したのか、東西に分裂した周の平王(へいおう)を助けるなどしたので西伯(せいはく)の称号を貰うなど活躍しました。
ですが、文侯は、出来のよい弟の事を内心嫌っていたので自分が生きている間は、
成師に領地を与えませんでした。
ですが、文侯は死に、成師は曲沃(きょくよく)という土地を与えられて自立します。
そして、文侯の孫の時代には、成師の孫の武公(ぶこう)が台頭して、
本家、翼(よく)の湣侯(びんこう)を滅ぼして、晋を乗っ取りました。
紀元前716年の事です。
献公、驪姫の愛に迷い晋を傾けるが文公が即位して覇者になる
武公の子の献公(けんこう)は若い頃は名君でしたが、年を取って手に入れた
美女である驪姫(り・き)に夢中になり次第に驪姫の言いなりになります。
この驪姫は顔に似合わず、腹黒い野心家でもあり、自分が産んだ息子を
晋公として即位させる為に後継者であった太子の申生(しんせい)に濡れ衣を着せます。
父に死を命じられた申生は親孝行にも自殺しました。
重耳(ちょうじ)と夷吾(いご)は、この申生の兄弟でしたが、
このままでは、自分達も驪姫に殺されると相次いで国外に逃亡します。
二人の勘は正しく、以後も驪姫は、献公と他の妃の間に生まれた
公子達を殺していき、首尾よく自分の子供を即位させました。
しかし、強引な手法は反発も生み、息子が即位した直後にクーデターが
起きて、驪姫も即位した奚斉(けいせい)も殺されてしまいます。
そこから、晋は3代の君主が入れ替わり立ち替わり即位するという混乱になりますが
その間、混乱を避けて各地を流浪していた重耳は辛い扱いを受けながらも
次第に名声を得ていき、紀元前636年に、秦(しん)の後ろ盾を得て晋に帰還し、
敵対者を倒して62歳で即位します。
苦難の亡命生活から、19年という長い歳月が流れていました・・
これが24代の文公で、大国の楚(そ)を撃破するなどして、
覇者として天下に名を轟かせます。
晋は28代景公の時代に覇者の地位から転落して斜陽に・・
晋の覇者としての地位は40年程維持されましたが、28代の景公(けいこう)の時代に
邲(ひつ)の戦いで楚に大敗してしまい覇者の地位を奪われます。
そこまでは良かったのですが、以後、敗戦の責任を巡り、晋では内紛が起き
大勢の公族が殺されてしまうという悲劇が起こります。
そして、それは代わりに貴族の力を強化する事につながり王権を脅かす事に繋がります。
晋は29代の厲公(れいこう)が鄢陵(うりょう)の戦いで楚に勝利して
再び覇権を取り戻しますが、強引な厲公の政治は反発を産み彼は部下に殺されます。
以後、晋の君主は絶対的な力を失い、晋の勢力争いのバランサーの役割を
期待される存在に落ちてしまうのです。
晋の六卿の勢力争いから、戦国七雄、韓・趙・魏が産まれる
晋の領土は東では斉(せい)と国境を接し、南では衛(えい)、鄭(てい)、
周(しゅう)、そして西では秦と国境を接し、北では中山国を挟んで
燕(えん)があるという巨大な国でした。
晋は春秋時代の終わりには、事実上、范(はん)氏、智(ち)氏、中行(ちゅうこう)氏、
趙(ちょう)氏、韓(かん)氏、魏(ぎ)氏の五氏、六家系の六卿(ろっきょう)により
政治が行われる状態になります。
六卿は最初は結託して、他の貴族を滅ぼすと次には六卿の間で勢力争いが起きます。
折しも、范氏と中行氏が没落すると、その領地を智氏と趙氏、韓氏、魏氏が黙って
分割するという事態が起きます。
これに、35代の出公(しゅつこう)は怒り、密かに斉や魯(ろ)と結んで
四氏を討とうとして失敗、出公は殺されるのを恐れて亡命し、
ここに晋公は有名無実になります。
残った四卿では智氏が最強でした、智氏は何故か、趙氏を毛嫌いしており、
残りの韓氏と魏氏を従えて趙氏を攻め滅ぼそうとします。
弱小の趙氏は苦しい戦いを続けますが、やがて、魏氏や韓氏と連絡を取りつけます。
「智氏は横暴で欲が深い、我が趙氏を滅ぼしたら次は君達の番だぞ」
魏氏と韓氏は、趙氏の誘いに乗り、智氏を裏切って攻撃し紀元前453年に滅ぼしました。
こうして、魏・韓・趙の三氏が晋で残る事になります。
ん?魏・韓・趙、勘のいい人はお分かりの事でしょうが、この三氏が、
広大な晋の領土を三分割して、東を趙が真ん中を魏が、西を韓が領有します。
三氏は、晋の三候と呼ばれるようになりました。
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曲沃と絳の二都市だけを残された晋、紀元前376年に滅亡する
その後も晋は、曲沃と絳の二都市だけを残された状態で存続します。
しかし、紀元前403年、周は魏・韓・趙を正式に諸候に任命し、
この時点から、晋と三氏の関係は、全く対等になってしまいます。
そして紀元前376年、晋は韓と魏の連合軍に攻め込まれます。
最後の晋公である40代静公(じょうこう)は熾烈な防戦の結果、
力尽きて降伏し、庶民に落されて、晋は滅亡しました。
三国志ライターkawusoの独り言
キングダムでも中心的な役割を果たす、趙や韓、魏が元々は晋という
超大国の一貴族に過ぎなかったというのは面白いです。
もし、この晋に名君が産まれて、西の秦と対抗していたら、、
戦国七雄ではなく、斉と晋と秦、それに楚を加えた戦国四雄とか
だったかも知れませんね。
本日も春秋戦国の話題をご馳走様、じゃあ、またにゃ~
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