張翼(ちょうよく)ってどんな人?歴代丞相と共に北伐へ参加した蜀の重臣

2015年11月18日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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姜維の北伐を批判し続ける張翼

キラー陳泰

 

しかし、救援にきた陳泰(ちんたい)軍に敗れ、蜀軍は退却します。

 

軍会議で的確に作戦指示を出す陳泰

 

姜維は、その後も度々北伐を行いますが、その度に張翼は「姜維の北伐は無益で、国力が疲弊するだけだ」と批判し続けます。ですが姜維は、彼の言うことに耳を貸さず、北伐を行います。姜維は、反対意見を述べ続ける張翼を苦々しく思っていましたが、蜀軍の重鎮で、軍略に明るい彼を北伐するときは、必ず従軍を命じておりました。張翼も自分の進言を取り入れない姜維を疎ましく思っていましたが、渋々従軍に従います。

 

蜀の国力が減少、魏軍が侵攻を開始

鍾会

 

しかし張翼が反対したとおり、姜維の北伐によって国力はどんどん減少していき、ついに魏軍が侵攻を開始します。魏の大軍を率いるのは鄧艾(とうがい)鍾会(しょうかい)です。蜀の皇帝劉禅(りゅうぜん)は、姜維や廖化達に陽安関を守備するように命じますが、蜀の将軍が寝返ってしまい陽平関は陥落してしまいます。

 

張翼は敗走してきた軍を収容し、剣閣で鄧艾と鍾会が率いる魏軍を迎撃します。張翼たちは幾度も攻めてくる魏軍を何度打ち払い、剣閣を守りきっていたが、別働隊を編成した鄧艾が蜀の首都・成都を陥落させ、皇帝・劉禅が降伏してしまったため、張翼も魏軍に降伏するのであった。

 

張翼の最期

殺害される姜維と鍾会

 

共に戦っていた廖化(りょうか)らは、魏の首都である洛陽へと送られたが、張翼と姜維は鍾会と共に成都へと向かうことになります。姜維と鍾会は成都で反乱を企てますが、張翼は参加しませんでした。彼らのクーデターを鎮圧する魏軍の攻撃に巻き込まれ、張翼は亡くなってしまうのです。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

張翼の先祖は前漢の劉邦(りゅうほう)の軍師・張良(ちょうりょう)だとされております。その地を受け継いでいたのか、軍略の才や統治能力にも秀でており、蜀の後半の武将の中では優れていた人物だと思われます。しかし、姜維が張翼の進言を取り入れて国力の充実を図っていたとしたら、蜀の滅びが遅くなっており、晋が天下を統一できたか危うかったかもしれません。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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