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バッタバタの移転生活
曹丕の一番のライバルだったのが曹植ですから、その勢力=曹丕(の側近達)に反目する陣営が危険視された事は悲しくも想像がつきます。しかし曹植だけでなく他の兄弟たちも各国の王に封じる名目で、離れた領国で暮らす事となります。
彼らには監国使者というお目付け役が付き、兄弟同士で徒党を組めないように厳しく監視され過ごす事となりました。2年ほど後に曹彰が没し、葬儀の帰り道に思い出話をしたいから、途中まで同行したいな…という希望も叶えられなかったほどです。加えて領国で力をつけないよう、ほとんどの兄弟たちに何回もの国替えが命ぜられました。
曹植の場合は特に凄まじく、28歳から39歳まで、数ヶ月~4年置きに6回も食らっています(正史の伝には「11年に3度都を変えさせられた」とあります)。28歳頃には泥酔時の所業を監国使者に報告され、王から侯へ格下げもされました。翌年王に戻りましたが国替えラッシュは相変わらずでした。後年あんまりなんじゃないかと上奏したほどです。
曹植のちょっとだけいい事
ちょっとだけ良い事もありました。31歳の頃に母の卞氏が仲介し、曹丕とのわだかまりが少し解けたようです。これより上奏文という形で曹丕と交流があった記述が正史に残っています。
負けじと上奏を繰り返す
バタバタした環境の中でも、曹植は「自分は国の為に働きたい」と上奏を何度も行っています。溢れる文才を昇華させるよりも軍事・国政の場で実力を発揮するのが彼の希望でした。対呉戦線に赴きたいと上奏した事もあります。34歳の時に文帝が崩御し明帝の御世に変わってからは、上奏回数はさらに多くなります。
そして時には内容が取り上げられ国政に反映される事もありました、国替えは相変わらずでしたが、39歳の時に東阿に移り、翌年近隣4県を合わせた「陳王」に封じられた際は、これを機に中央で活躍できるかも…と期待しますが叶えられませんでした。
失意の中病没
曹植の領地の経済力・人口を示す食戸は28~41歳まで2500~3500戸くらいでした。曹彰がそれまでの軍功を讃えられ死亡時に10000戸だったことや、早世したり若死にして取り潰しになった兄弟が1200~2000戸、許チョ(きょちょ)や張遼(ちょうりょう)といった歴戦の武将が1200戸程度だった事を考えると、この数の過不足はちょっと分かりませんが、移転が多い中では王族として余裕のある生活ではなかったようです。加えて属官は商人や素人、兵士は老人(60?70歳)ばかりが200人ほど…曹植の伝を読むと、当時王となった曹一族がどのような状況で暮らしていたのかを垣間見れると思います。そして後の晋で皇帝の親族が重んじられた理由も…
39歳の頃には最大の後ろ盾だった母も亡くなり、軍事・政治にも関われない曹植は、やがて病を得て亡くなります。享年42歳。余談ですが曹操の息子達って長生きした人、あんまり居ないですね…東阿に国替えとなった時にここで死にたいと願い、希望通りここに墳墓を造り葬られました。子の曹志(そうし)が跡を継ぎましたが済北国に移されています。
文学史に残る功績
以上のように正史に残る曹植の人生を振り返りますと、いたたまれなさが残りますが、彼自身が軽視した詩才が後世に残る評価を得ています。建安文学を支える、当時を代表する詩人でした。曹植の作風は剛直、勇壮、闊達、華麗、感情の起伏に富みかつ技巧にも優れており、様々な詩を作っています。父の曹操、兄の曹丕と共に建安文学の三曹と呼ばれ、 簡潔かつ古風、雄大で爽やかな詩を作る父 、繊細優美な作風の兄とは一線を画す曹植の詩は、魏を代表するだけでなく後世の文学にも多くの影響を与えました。
三国志ライター栂みつはの独り言
私自身、あまり曹操の息子達に興味が無かった事もあり、曹植には詩人としての名声と、曹丕に虐げられた演義での可哀想なイメージしかありませんでした。しかし実際に正史を読み返すと、曹操の「陽」の部分を受け継いだ奔放さと文才、素直で天才肌の大酒飲み、後半生の不遇に負けない不屈の精神と、彼の様々な面が読み取れたなと感じています。そして失意のうちに病で没する原因の、飼い殺しにされる悔しさ、悲しさも少しだけ。
特に曹植は皇帝になっていたかもしれない王族なので、彼や彼の兄弟たちの境遇から、当時の魏の政治情勢なども垣間見れるのかしらとも思いました。史書を読むのはやっぱり楽しいですね。