曹植(そうしょく)、字は子建は、曹操(そうそう)が37歳の時の子どもです。母は当時側室の卞氏で、上には4人の兄がいました。同母の兄には5歳上の曹丕(そうひ)、2~3歳上(生年不明です)の曹彰(そうしょう)が居ます。幼い頃は曹丕ともども庶子として扱われていましたが、6歳頃に長兄曹昂が討ち死に、これに原因する曹操と丁夫人の離縁から卞氏が正妻となり、嫡子としての扱いとなりました(曹昂の同母弟曹鑠も早世しています)。
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幼くして才能を見せる
10歳前後で既に文章、特に詩才がある事で知られていました。また聡明だけどおおらかでのほほんとした気質、穏やかで素直な面があり、才能と合わせて一時は曹操自身が後継者にどうか、とも考えたほどでした。ただの文学少年ではなく、14歳の頃から父に従っての従軍経験もありました。
後継者レース勃発
当時曹操の息子達で、後継者レースに乗せられていたのが年長の曹丕、曹植、そして天賦の才能と人徳があったと伝わる庶子の曹沖(そうちゅう)です。不幸な事に曹沖は208年、13歳で早世してしまいます。
ちなみに曹彰は根っからの武将タイプで、本人も立派な武将になり軍功を挙げる事を目指す、と公言していましたので(後の歴史を考えると賢い選択)、父公認でレースには不参加です。後継者レース開催中の曹植・曹丕が10代後半?20代の頃、曹操陣営には人材が続々と集まってきていました。人が集まると徒党が組まれるもの。それが後継者かもしれない公子達の取り巻きとなると…何となく想像がつきますよね。実際に2人が争っていたというより、側近達や周囲がああでもない、こうでもないと言っていた、というのが実情ではと考えられています。
お酒の味を覚えてしまい…?!
この時期を曹植はどう過ごしたのでしょう?
彼は子どもの頃のまま、おおらかで素直な性格だったようです。加えて父ゆずりの文才はどんどん開花し、優れた詩を生み出すようになります。そんな彼の落とし穴が「酒」でした。どうやら大酒飲み、お酒大好きになってしまったようで、特に20代には正史に酒での失敗が残るほどでした(曹丕にハメられた逸話も残ります)。酒好きの天才肌。
その上年相応ではない思慮に欠ける振舞い…曹丕は神経質で暗めのロマンチストだったようですから、どちらが良いものか曹操は本当に悩んだ事でしょう。曹丕が身を慎んで言動に注意していた事もあり、曹植25歳の頃には曹丕が後継者と決まりました。曹操の死まで3年を切っています。本当に悩んだんですね…
曹植の転落人生
この頃から曹植の扱いが、当然ながら変わってきます。曹植本人というより、取り巻き連中の勢力が無視できない状態だったようです。
まずは「鶏肋」のエピソードで知られる楊修(ようしゅう)が、その才を危ぶんだ曹操に誅されます。享年45歳。曹操の長年のライバルであった袁紹一族に連なる人物、という事も背景にあったようです。自由人の曹植を後継者たりえるようアドバイス(という名の操縦を)していた人物の刑死は、曹植にはとてもこたえたと思います。酔っ払って正史に残る事件を起こすのがこの頃です。曹操が没し曹丕が文帝となると、これまた側近の丁儀兄弟が何と一族男子誅滅となりました。
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