はじめての三国志に住んでいる歴史好きなネコ・廉です。今回は後漢のラストエンペラー献帝の青年期から曹操に保護されるまでを調べてきたからみんなに教えるにゃ。みんな読んでくれにゃ。
壮絶な青年期
彼は読者の皆さんには献帝で知られていますが、彼の名前は劉協といいます。霊帝の次男として生まれます。母は皇后である何氏の嫉妬により毒殺され、早くに母を失います。母親を亡くした彼は、霊帝の母親である董太后の宮殿で養育されることになります。霊帝が亡くなると次の皇帝に劉弁が継ぎます。劉協は渤海王になりますが、すぐに移動させられ、陳竜王に就任します。劉協が陳留王になった時、朝廷は荒れておりました。
十常侍らに反発した大将軍何進
十常侍と呼ばれる宦官達が朝廷の権力を握っておりました。十常侍らに反発した大将軍何進は自らの派閥を作り宦官達と対立します。二つの勢力の対立は激しさを増し、ついに十常侍らが大将軍何進を暗殺します。袁紹(えんしょう)は何進が暗殺された事を聞き、すぐさま挙兵。十常侍や普通の宦官達を捕縛し、処刑していきます。二つの勢力の政争のせいで都は大混乱に陥ります。皇帝であった劉弁と陳留王である劉協は、十常侍の張譲らに連れ去られます。しかし、盧植ら文官たちに救出され、都に帰還します。
董卓に担がれて皇帝へ即位
劉協と皇帝劉弁は洛陽に帰還します。しかし劉協に待ち受けていたのは過酷な日々でした。洛陽は劉協たちが帰還した後も混乱が続いておりました。そんな中、涼州の群雄である董卓(とうたく)が洛陽に入城します。彼は軍事力を背景に洛陽と朝廷の混乱を収め、朝廷内での実権を握っていきます。そんな中、劉弁は董卓により皇帝の位を降ろされます。そして次の皇帝には陳留王であった劉協が皇帝に即位。この小さな青年皇帝の名は後に『献帝』と呼ばれる事になります(この記事でも劉協と表記せず、献帝と表記します。)
好き放題する董卓
献帝は董卓に担がれている存在であるため、董卓の専横が極まっても彼は反対する事が出来ませんでした。そのため董卓はますます好き勝手に王朝を運営していきます。董卓の専横に激怒した諸侯は、彼を討伐すべく連合軍を形成し、洛陽に向けて進軍を開始。董卓は洛陽に本陣を定め、連合軍を迎撃すべく準備を開始します、献帝はその間、洛陽から長安へ遷都(皇帝の居場所を他の都市へ移動する事)します。董卓軍は連合軍に敗北し、長安に逃げ帰ってきます。その後董卓は王允と呂布により暗殺。そして王允と呂布による政治が開始されます。
お飾り皇帝に逆戻り
献帝は王允(おういん)と呂布(りょふ)の政治により、後漢王朝は少しずつ回復の兆しを見せます。しかし、董卓軍の残党が長安城を攻撃。この時呂布は迎撃に出ますが、敗れてしまいそのまま逃走します。王允も董卓軍の残党によって殺されてしまいます。こうして献帝は再び董卓時代のようなお飾りの皇帝に戻ってしまいます。またこの当時、中国全土で群雄が独立し、実質後漢王朝は内乱状態に陥ってしまうのです。献帝は董卓軍残党が実権を握る長安で元服します。元服後すぐに董卓軍残党の代表格である李傕と郭汜の政争に巻き込まれます。このような絶望的な状況の中、彼を救う存在が現れたのです。朝廷の臣であった董承や楊彪らが献帝を長安から脱出させ、洛陽へ逃げます。献帝はボロボロになった洛陽に辿り着くとそこで運命の出会いが待っていました。
ここではじめての三国志クイズ
献帝を待っていたのは誰でしょうか?
次の三択から答えるにゃ
1劉備
2曹操
3董卓
さぁ答えるにゃ。
正解は…3番ではなく、2番にゃ。
洛陽で献帝と運命的な出会いを果たしたのは曹操(そうそう)です。曹操は軍勢を率いて洛陽へ進出し献帝が来るのを待ち受けておりました。曹操は献帝を許へ迎え入れるのです。こうして献帝の逃亡劇は終わり、曹操の元で新たな日々を過ごすことになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
さて今回は後漢のラストエンペラー献帝の青年期をお送りいたしました。壮絶な青年期を送った彼ですが、曹操と出会った事で平和が訪れます。しかし波乱万丈な彼の人生はこの後も続くことになります。次回は曹操との出会いから始めていきたいと思います。