剣と魔法RPGなどでは、宮殿やお城というと壁面に大きな窓ガラスが飾られ、光がサンサンと入り込んでくるというイメージがあります。しかし、実際には中世の末期まではヨーロッパでも窓ガラスは高価であり、かなり大きな城でも窓は防犯と費用の面から、鎧扉(よろいど)であり、ガラスは使われず昼でも光が入らず、室内はジメジメしてうす暗かったようです。
この記事の目次
中世ヨーロッパに無いなら中国にだって窓ガラスは無いの?
三国志の時代から1000年以上後の中世ヨーロッパでも窓ガラスがないなら当然、中国の三国時代にだって、高価な窓ガラスは無いと言う事でしょうか?
曹操(そうそう)や郭嘉(かくか)は、昼でも薄暗い宮殿の中でロウソクを灯しながら、天下統一へのジメジメ謀議を行ったのでしょうか?
それは暗い!余りに暗過ぎるし、ジメジメしすぎるでしょう!!
窓ガラスが出土した古代都市、ポンペイのフォルムの大浴場
しかし、往々にして真実は固定概念を覆すものです。紀元79年、イタリアのヴェスビオ火山の大噴火で一瞬にして火砕流に飲まれ当時の姿を残したまま遺跡なり18世紀に偶然発見された古代ローマの都市ポンペイにて市民が使用したフォルムという大浴場が発掘されました。このフォルムの大浴場の天井には、何と板ガラスが使用されていました。北ヨーロッパは寒い時期が長く、大浴場は換気の際に風呂の温度を下げない工夫が必要でそれには、開閉が簡単な窓ガラスが最適でした。さらにプラス、明るく開放的な風呂空間を実現するには、光は通しても、風は通さない窓ガラスが向いていたのです。
お風呂大好き民族の国、ローマでは風呂にも娯楽が求められたのです。
日本で銭湯のタイルに富士山が描かれるようなものでしょうか?
気になる当時の板ガラスの透明度ですが、光はもちろん問題なく入りますが不純物と厚さの関係で、窓の外の風景はぼんやり映る程度であるようです。それでも薄暗い浴場に慣れたポンペイの人々は風呂に入りながら、窓の向こうが見えるという趣向に大満足したようです。
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当時の板ガラスの製造方法とは?
当時の板ガラスの製造方法について、簡単ですが説明します。まず、砂地に穴を掘り、それを正方形ないし長方形の板ガラスの形にします。そこに石英、ソーダ灰、それに石灰を混ぜ合わせて火でドロドロに溶かしたガラスの元を流し込みます。後は、これをゆっくりと時間をかけて冷やせば完成という事になります。もっとも、当時、板ガラスは分厚く大変に高価でしたから、貴族や公共の建物或いは金持ち位しか窓ガラスを嵌められなかったようです。
宙吹きガラスの発明で、ガラスの値は下がり庶民にも浸透する
しかし、紀元前1世紀頃アレキサンドラの職人が鉄の筒に溶けたガラスをくっつけて息を吹いてみたところ、ガラスが風船のように膨らんだ事から、画期的な宙吹きガラスの製法が確立していきます。宙吹きガラスは、現在でも使われるほどに製造法が簡単であり、ガラスは薄く原料も少なくて済みまた透明度も格段に高い上に色々な形に加工できたので、ガラスの値段はぐんと下がり庶民でも手に入るようになったと言われています。
どうして、古代ローマではガラスが量産されたの?
こうして見ると、皆さんは不思議に思うかも知れません。なんで1000年以上未来の中世ヨーロッパでさえ板ガラスが高価なのにどうして紀元前後のローマ時代ではガラスが庶民にも手に入るのか?
それは、古代ローマの領地に理由がありました。世界帝国であった古代ローマは現在のヨーロッパから北欧、中東や、アフリカ北部にまで勢力を伸ばしており、これによりガラス作りに必要な材料を全て、帝国領内で自給自足できたのです。
一方の中世ヨーロッパは、領域は広大でも、それぞれは都市国家として閉じていて、積極的に周辺と貿易をするような状態ではありません。これでは経済も小さく原料にも乏しいので、ガラスを量産する事は出来ず必然的にガラスの値段も高価になったのです。
シルクロードを通じて、ローマの板ガラスは中国へ伝わる・・
(写真は古代中国のガラス)
中国においてガラス製品が見られるようになるのは、紀元前6世紀の春秋戦国時代です。ただ、この頃は板ガラスではなく、装飾品としてのビーズやトンボ玉でした。中国のガラス文化は、シルクロードを通じてメソポタミアやインドなどのガラス先進国から影響を受けていて、後にはローマの技術も入ったようです。そして時代は降り紀元前2世紀の前漢時代の南越王の趙眜(ちょうばつ)の墓からは装飾した枠に嵌められた板ガラスが出土しています。
これは、窓ガラスではなく、ガラスの反射性を利用した鏡の代わりのようですがこれを窓枠に嵌めてしまえば、これは窓ガラスになります。
南越は、紀元前111年に前漢の武帝(ぶてい)に滅ぼされますが、これだけ漢に近い国で板ガラスが出土したという事は、中国にはこの頃には板ガラスがあったと考えて間違いはないかと思えます。
西京雑記に書き残される前漢時代の宮殿の様子
前漢の平帝の妃で体が細く美人の代名詞とされた趙飛燕(ちょう・ひえん)には、同じく美貌の妹がいて、彼女は昭陽殿に住んでいました。その派手で豪華な暮らしぶりを書いたのが西京雑記なのですが、その中には、以下のような漢文が存在します。
窗扉多是緑琉璃、亦皆達照、毛髮不得藏焉。
この意味は「窓と扉は、緑色の瑠璃で飾られ、室内は全て照らされて明るく毛髪一本であっても隠せるとは思わない事だ」になります。緑瑠璃とは、緑がかったガラスの事で窗扉は窓を意味しています。この西京雑記は、伝では前漢の劉歆(りゅうきん)の撰で西晋の葛洪(かっこう)の編纂とされますが実際は六朝時代(222~589)の作品とも考えられています。つまり、もしかすると、前漢ではなく、西晋から6世紀の陳までの間の話を前漢の話に当てはめたかも知れないという疑義は拭えません。ただ、その時代以前からの出土物により前漢期には輸入かそうでないかは分からないとしても板ガラス自体はあり、それは宮殿には使用されていたと考えてもいいと思います。
万事、西域流行りだった後漢王朝で窓ガラスは流行したのでは?
後漢のダメ皇帝、霊帝(れいてい)は大変な西域カブレだった事が知られています。その中で、ローマから伝わる板ガラスは、西域のインテリアとして、広く霊帝が採用した可能性は高いでしょう。もちろん皇帝が西域趣味なら、家来も歓心を買おうと西域趣味になるのは道理その中で、大金持ちの曹嵩(そうすう)などが自分の屋敷に板ガラスを入れた可能性はあり得ないとは言えないでしょう。そんな西域趣味の屋敷で育った曹操が多くの明かりを取り入れる板ガラスに関心を持ち、自分の宮殿や屋敷で使っても不思議はありません。
曹操がワインを飲み、蜜柑や葡萄を食べたのは、彼の残した詩からもハッキリと確認できます。それを考えると、彼の屋敷は、薄暗さとは無縁で、昼はふんだんに光が入る多くの窓ガラスに飾られた屋敷では無かったかと思えるのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
蒼天航路では、「アモーレー」とか言いながらパツキンギャルといちゃついていた曹操。その設定にも、曹操の西域趣味が反映されていると思います。そうでなくても、非常の人として新しい物が好きだった曹操ですから、曹操の屋敷は窓ガラスで一杯だったというのも、あながち間違いではないと考えています。本日も三国志の話題をご馳走様でした。