三国志で老将のイメージと言えば黄忠(こうちゅう)が出てくると思いますが、彼より長生きをした武将が孫呉の将軍の中にいました。その名は呂岱(りょたい)です。彼は96歳まで生きた長寿武将です。
孫権(そんけん)から南方に存在する異民族討伐ミッションを受け取り、こなしていきます。彼はなんと80歳を超えてなお異民族討伐や反乱分子討伐戦に参加していた老将です。
この記事の目次
孫権に仕える
呂岱は161年生まれです。実は蜀漢を起こした劉備(りゅうび)と同い年なんです。そんな彼は戦乱を避けて家族と共に揚州に移り住みます。呂岱が移り住んだ時は孫策(そんさく)が亡くなって孫権に代替わりした時でした。呂岱は孫権が有能な人材を集めていると聞き、孫権に仕える事にします。
ミッション1:南方の賊徒を討伐
孫権は孫策の跡を継ぐと、南方に存在する山越族や賊徒を討伐するため、諸将に軍勢を与えます。呂岱は孫権から会稽で反乱を起こした賊を討伐せよと命じられます。呂岱は同僚である蒋欽と共に出陣し速攻で賊の頭領を捕縛し反乱を鎮圧します。孫権は反乱を起こした賊をすぐに鎮圧した呂岱の戦の巧さを高く評価。昭信中郎将の位を与えます。
ミッション2:荊州最南端の賊を討伐せよ
呂岱はその後数々の賊や異民族を討伐し、実績を積んで行きます。彼は220年に今までの活躍と異民族討伐で実績を残していることから呉の南方に位置する交州の刺史に任命されます。呂岱は交州刺史に着任した時すでに60歳を超えておりました。今の60歳で戦に出る事は非常に困難な事だと思いますが、彼は違います。呂岱は着任するとすぐさま軍勢を率いて、諸郡に居る賊徒を見つけ出して次々に討伐。この功績から安南将軍に任命されます。
ミッション3:交趾太守が反乱を起こす前に鎮圧
呂岱はこうして南方の反乱を次々に平定していきます。交州の西に位置する交趾には士燮が太守を務めておりました。彼は名目上孫権に服従する形をとっておりましたが、事実上独立した勢力でした。独立勢力を保っていた士燮が90歳で亡くなります。すると士燮の子供達は呉に反乱を起こそうと企みます。呂岱は士燮の息子達が不穏な動きを事前に察知。すぐに息子達を捕縛し処刑します。呂岱は交州全域で孫呉に逆らう反乱分子を一掃すると、次なるミッションを孫権から受け取ります。
ミッション4:ベトナム南部を制圧せよ
呂岱は孫権から次なるミッションを与えられます。その内容は「越南(現在のベトナム南部)を制圧しなさい」との事です。呂岱はすぐに出陣し、越南に侵攻します。越南には多数の異民族が存在しておりましたが、すぐに討伐を開始。呂岱は率いてきた軍勢をいくつかに分けて諸民族を討伐し、越南平定に成功します。この時捕虜にした者や斬首した者を合わせると数万人に及んだそうです。彼はさらに越南を平定した後、部下を越南より南に派遣。呂岱の軍勢が来ると南方の王たちは討伐されることを恐れて、呉に対して貢物を送ってくるようになりました。孫権は呂岱が南方平定ミッションを完了したことを喜び、彼を鎮南将軍に任命します。呂岱は老齢の身でありながら孫権から与えられたミッションの数々をこなしてきました。そろそろ引退かなと孫呉の群臣達は囁きますが、彼の戦いはまだまだ続きます。
75歳でも戦場の最前線で活躍
呂岱は呉に反乱を起こしてきた南方の反乱分子をことごとく討伐し、南方の平穏を手に入れました。孫権は南方が安定した事を知ると南方から荊州の長沙へ異動を命じられます。数年間荊州各地の都市を巡察しておりましたが、呉の南方の都市である会稽など三都市が連動して反乱を起こします。呂岱は孫権から「反乱を鎮圧せよ」とのミッションを受けすぐさま出陣。ついでに彼の年齢はこの反乱が発生した時75歳です。呂岱はとても75歳とは思われない超人的な働きをして三都市の反乱を鎮圧します。
生涯反乱を鎮圧し続けた老将
会稽の反乱から4年後、荊州南部から交州にかけて反乱が勃発します。呂岱はこの時79歳~80歳でありましたが、寝ないで軍勢を進めて現地に到着。一年間に及ぶ反乱軍との戦いを制して反乱を鎮圧させる活躍を見せます。その後も反乱がおきると戦場に出陣し、戦い続けます。彼は孫亮が皇帝になると大司馬に任命されます。しかしその4年後彼の長い生涯は終わりを告げます。享年96歳でした。呂岱の葬式は質素に行われたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
三国志の時代に96歳まで生きていることにも驚きですが、80歳を超えてなお戦場で駆け回れるその元気に驚きを隠せません。黄忠もかなり長生きをしていたと思うのですが、80歳を超えてなお戦場で戦っていた呂岱は三国志一の現役老将の代表格だと私は思います。
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