若い頃の劉備はチャラすぎ!劉備略年譜

2015年1月4日


 

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劉備 経歴

 

三国志演義』の主人公、劉備の人生は、山あり谷あり、各地を放浪しまくります。はじめて三国志に触れる方には、どうにもわかりづらい劉備の行動。そこで、簡単に整理してみることにしました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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10代の劉備

若かりし劉備 チャライ★

 

161年に涿郡に生まれた劉備は、漢王朝の遠い遠い血縁ですが、遠すぎて劉氏としてのプライドはあるものの、財力はなにもない家で育ちます。ある人が、劉備母子の住まいの東南に生える桑の木を見てこんなことを言います。

 

「この家からは、きっと貴人が出るでしょう」

 

15歳の時、盧植の弟子となり、公孫瓚と知り合います。10代の劉備は、ファッションや、音楽、遊びなどにいそしむチャラ男生活を楽しみ、交友関係を広げます。

 

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20代の劉備

劉備 茶

 

23歳の時、黄巾軍討伐に参加します。関羽(かんう)張飛(ちょうひ)と知り合って、義兄弟の契りを結ぶのもこの時です。

 

劉備の黒歴史

 

手柄を立てて、安喜の尉に任命されましたが、群の督融(政府のおエライ方)の態度にカチンときて、縛り上げて棒で打ち据え、そのまま官職を捨てて逃げてしまいます。『三国志演義』ではこの汚れ役を張飛が引き受けてくれましたが、実際は劉備がしました。まだまだ血気盛んな、若者の気分が抜けない20代でした。

 

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30代の劉備

劉備 呂布 肉取り合い

 

33歳の時、陶謙(とうけん)からまかされ、徐州の牧になります。しかし、あっという間に呂布(りょふ)に徐州を奪われて、行き場をなくした劉備は曹操(そうそう)のもとへ身を寄せます。しかし、やはり曹操の配下でいられるはずもなく、脱出。その後は、袁紹のもとへ身を寄せます。

 

曹操にコテンパにされる袁紹

 

官渡の戦いで、袁紹が曹操に敗れてしまったので、今度は劉表のもとへ身を寄せます。あちこちを転々とした忙しい30代でした。

 

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40代の劉備

劉備 髀肉の嘆 ゆるキャラ

 

劉備は劉表の荊州に7年ほど滞在します。わりとのんびりとした40代前半を送るのです。このとき、運動不足がたたり、ももに贅肉がついてしまったと嘆くのですが、もしかしたら中年太りだった……とか?しかし、46歳の時に人生のターニングポイントが訪れました。諸葛孔明を軍師に迎えたことです。翌年、孫権と同盟を組み、赤壁で曹操を破ります。

 

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50代の劉備

劉備玄徳が眩しい理由 三国志

 

50歳のとき、劉璋に迎えられて蜀に入ります。そして、53歳で、益州牧となり、ようやく蜀の国が出来ました。劉備の最も輝かしい時代は、50代と言えるでしょう。

 

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60代の劉備

張飛の最後

 

60歳の時、義兄弟の関羽が戦死してしまいます。ほぼ同時に、張飛も失い、劉備は弔い合戦を始めます。223年、合戦の途中、白帝城にて62歳で永眠します。

 

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