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この記事の目次
項燕の長男、項嬰の生涯とは?
では、最後に残った項燕の長男の項嬰について調べてみます。項嬰は、またの名を項英(こうえい)ともいい、妻は龙(ゆう)氏、子供は1人で、項籍(こうせき)後の項羽です。年齢は不明ですが、弟の項梁と共に秦を攻める為に兵を募集して彭城を守っていたそうです。
彭城は、項羽が後に西楚王朝を興した時に帝都になっていますから、軍事上の要衝だったと考えられます。そこから推測すると、恐らく、秦の王翦と蒙武が、楚王負芻を捕えた時が、項嬰が彭城に立て籠っていた時期だと考えられます。また、項羽の生誕地である下相は、この彭城の周辺にあたります。その父にあたる項嬰が、彭城で兵を挙げて守った事に違和感は少ないです。
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項嬰の最期とは?
項嬰の記述は短く、その最期も記録されてはいません。普通に考えると、項燕の息子を秦が生かしておくとも考えにくいので彭城で秦と戦い戦死したか、捕えられて処刑されたのでしょう。また、弟の項梁も参戦している事から、幼い息子の項羽を項梁に託して、落ちのびさせ、自身は時間を稼いで戦死したとも推測できます。また嬰という漢字には、若い、幼いという意味もあるので、項嬰は、戦死による若死にという意味があるのかも知れません。
項羽は、楚が滅亡した時、9歳位だと推定されます、だとすると項嬰は、15歳から20歳で項羽の父になったとして、25~30歳位で戦死したという事になります。こうして、考えると、キングダムに登場する項翼のモデルは、項燕の4名の息子の中から考えると項羽の父であり若くして戦死した項嬰と考えるのが自然かも知れません。
キングダムで換算すると項翼は信の7歳程度年下
漫画キングダムでは、主人公の信と始皇帝は大体同じ年のようです。始皇帝は紀元前259年の生まれなので、仮に項嬰が20歳で、項羽の父になったと考えると、紀元前252年が項嬰の誕生年になります。259-252=7という事になると項嬰は始皇帝や信より7歳下です。
7歳は少し大きな年齢幅になりますが、信が30歳で項嬰が23歳ならそこまでビジュアル的には大差はない思います。楚には、後に信と蒙恬が攻めこむのですから、その場面では、父の項燕の配下として従う項翼と信が直接対峙する事になるかも知れません。もっとも、そこでは信は派手に大負けしてしまうのですが・・
春秋戦国ライターkawausoの独り言
今回は、気になる武将、項翼の正体について色々考えてみました。キングダムが始皇帝の死後まで続くなら、劉邦や項羽も登場する事になります。ちなみに劉邦は、紀元前256年誕生説があり、始皇帝の僅か三歳下なので現時点でも充分にキングダムに登場できる年齢です。もしかしたら、若き日のぶらぶらしている劉邦がキングダムに登場する時があるかも知れませんね。本日も悠久の春秋戦国時代に乾杯!
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—熱き『キングダム』の原点がココに—