霍峻(かくしゅん)は益州攻略の立役者の一人として挙げられます。彼の息子・霍弋(かくよく)は父と同じく名将と言ってもいい振舞いをします。その名将ぶりに魏の司馬昭(しばしょう)は関心して、彼に重要な役職を与えます。霍峻の息子・名将霍弋を紹介していきたいと思います。
丞相の事務官として活躍
霍弋は霍峻の息子として活躍を期待され、劉備(りゅうび)の晩年に皇太子の宿営を守る役職を与えられます。その後孔明が北伐を行う為漢中に駐屯した時、孔明の養子である諸葛喬(しょかつきょう)と共に丞相の事務官に任命。諸葛喬と共に蜀の各地を巡察します。
異民族討伐へ出陣
張嶷(ちょうぎょく)が羌族を服従させている時、霍弋は永昌郡で起きた反乱を鎮圧するため永昌太守に任命され、異民族討伐へ赴きます。霍弋は兵士をよく統制し、反乱を起こした首謀者を討ち取り、反乱を鎮圧します。彼はその後永昌太守として雲南一体で頻発に発生していた反乱を時には討伐し、時には帰順させていく事で、雲南地方の反乱は激減します。
蜀の滅亡
霍弋はその後も中央に戻る事無く、雲南地方をしっかりと治めます。その実績が劉禅(りゅうぜん)に認められ、安南将軍へ昇進を果たします。霍弋が安南将軍に昇進した年、中央では大事件が起きておりました。
魏は鍾会(しょうかい)を総大将に任命し、鄧艾(とうがい)らの諸将と大軍を与え、蜀に侵攻しておりました。鍾会は剣閣に籠る姜維(きょうい)軍にてこずり中々侵攻できませんでした。そんな中副将である鄧艾は剣閣から獣道を通り、綿竹関へ出ますその後鄧艾軍は綿竹関へ猛攻をかけます。
綿竹関に籠っていた諸葛瞻と彼の息子である諸葛尚は必死に鄧艾軍の攻撃に抵抗しますが、綿竹関は陥落。
諸葛親子は鄧艾にとらわれ処断されます。その後鄧艾軍は蜀の首都である成都を包囲。劉禅は魏に降伏し、蜀は滅亡してしまいます。
劉禅の身を案じ、自ら降伏を申し出ない
霍弋は成都陥落の報告を受けると、喪服に着替え、三日間喪に服します。霍弋の部下は喪が明けた後、霍弋に「殿。速やかに魏に降伏するべきではないですか。」と進言します。霍弋は部下の進言を聞き「陛下の安否が分からないこの状況で降伏するのは間違っている。陛下が魏に降伏した後、礼をもって丁重に扱われているか確認してから、降伏を申し出ても決して遅くない。だがもし陛下が危険な目に遭っている場合、私は魏に降伏せず、徹底的に抗戦するつもりだ。」と部下に告げます。
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