キングダムにおいて、趙の李牧(りぼく)が集めた五カ国連合軍が攻めよせた秦の国門、函谷関、その圧倒的な威圧感は漫画においても見所の一つですが、ぶっちゃけた話、函谷関って、そんなに凄かったんでしょうか?
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函谷関は、2つ実在している
函谷関は、しっかり存在しています、それは今でもあるという意味です。実は、函谷関は、春秋戦国時代のものと、前漢時代のものがあって、キングダムで登場した、旧函谷関は、楚の項羽(こうう)によって破懐された後、実に2000年以上経過した1992年に復元されました。
一方の新函谷関は、紀元前144年に建設され、20世紀に入るまで残っていましたが、1926年に中国の内戦で崩壊し、特別に、建て直されますが、1958年に毛沢東の大躍進政策により、溶鉱炉の煉瓦に使う為に城壁が解体されました。
函谷関は、誰によって、どこに建てられたか?
旧函谷関は、紀元前361年、秦の孝(こう)公の時代、王都、櫟陽(がくよう)から東、渭水と合流する黄河の最期の大カーブ潼関から下流70キロメートルの地点、南北から山脈が走る地点を選んで建造されました。キングダムの時代の100年程前の時代の事です。
函谷関は、どんな建物だったのか?
函谷関は、三層の高楼を二つ持つ建築物だったようです。
その城壁の高さは66メートル、長さについては分かりませんが、紀元前248年、魏の信陵(しんりょう)君は斉以外の五カ国の連合軍をまとめて函谷関に押し寄せていますから、数十万の兵力が張りつける程の長さはあったという事でしょう。この66メートルという高さの建物には、赤坂ツインタワー本館が匹敵していますから、相当にデカイでしょう。漫画、キングダムの描き方は、決して誇張ではありません。
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函谷関は、本当に難攻不落だったのか?
漫画の中では、難攻不落と言われつつも、魏の呉鳳明(ごほうめい)の井蘭(せいらん)車によって、上られ放題だった函谷関ですが、あれはフィクションです。この函谷関を破懐した人物には、楚の項羽(こうう)がいますが、その時には、咸陽は劉邦(りゅうほう)によって陥落させられ、函谷関の守りは、必要最低限の人数しかありませんでした。
もう一人は戦国四君で知られる孟嘗(もうしょう)君ですが、彼は力づくではなく、鶏の鳴き真似が上手い食客を利用して、一番鶏の鳴き真似をさせ、周囲の鶏が朝と勘違いして鳴きはじめ、函谷関の関守は朝だと思って、門を開く事になりました。
一人も殺す事なく、函谷関を開いているので、ある意味、孟嘗君が、もっとも優れた用兵家であるかも知れません(笑)
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