呉は建国から滅亡までに10人の丞相を立て、政治を任せてきました。陳寿(ちんじゅ)は10人中7人を三国志の書物の中に伝記を記しています。しかし彼はなぜか初代丞相の伝記を作りませんでした。今回はなぜ陳寿が呉の初代丞相の伝記を作らなかったのかを調べてみました。
この記事の目次
伝記が無い3人
呉は歴代で10人の丞相を任命しています。その中で孫卲(そんしょう)と万彧(ばんいく)、張悌(ちょうてい)三人の伝記が三国志の呉の伝記にありません。陳寿は万彧と張悌の伝記を作らなかった理由は明確です。
それは呉の滅亡寸前の時期に差し掛かっていたためです。国の政治を取り仕切るトップでありながら、国を救えなかった丞相であるため、記載しなかったのです。しかし初代丞相である孫卲の伝記が正史の三国志に無いのはどうしてなのでしょうか。
陳寿が伝記を作らなかった訳
それは呉の歴史書を作った家臣に原因がありました。孫卲は呉の家臣である張温(ちょうおん)と仲が非常に悪く、会う度に喧嘩を繰り広げる程の険悪さでした。張温が亡くなると彼の家は息子が継ぎます。張温の息子は呉の歴史書を製作している韋昭(いしょう)と友人でした。韋昭も張温と同様に孫卲を嫌っていたため、彼は呉の歴史書に孫卲の名前を入れず完成させたのです。陳寿は正史三国志を作る際、韋昭が完成させた呉の歴史書を参考にして、編集しています。正史三国志に孫卲の列伝が無いのは呉の歴史書に記されていないため、陳寿は彼の伝記を作りませんでした。
「呉録」に記載あり
では初代丞相である孫卲の伝記は何処にも残っていないのでしょうか。そんなことはありません。「呉録」と言う呉の情報をかき集めた書物の中に、少しだけ彼の経歴が残されていました。
呉の初代丞相である孫卲とは一体何者
ここからは三国志に記されていない呉の初代丞相である孫卲を紹介していきたいと思います。孫卲は孫の名がついておりますが、彼の生まれは北海の生まれです。そのため呉の孫家とは関係ありません。身長は190㎝と当時としてはかなり大柄な人物で、孔子の末裔である孔融(こうゆう)から「朝廷に仕える事が出来るなら、彼は政治の場で活躍する事が出来る人物である」と評しており、若い頃から優秀な人物でありました。
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