この記事の目次
苛酷な生徒の生活 全てが自給自足
私塾には、決められた束脩を払えば、誰でも入門できるので、
安いと言えば、安いのですが、それは師が、
学問を教える以外の面倒は見ないという事の裏返しでもありました。
自宅の近くに私塾があるなら、別ですが、自宅から遠かった場合
三度の食事から住む場所、風呂、そして実家から仕送りがない場合には、
アルバイトまで入門者は考えなければいけませんでした。
実際に、生活費が足りず、泣く泣く、大事にしていた本を手放して、
生活費に充てるような貧乏な学生も大勢いたようです。
それは私塾ばかりではなく、太学や郡国学でも同じでした。
もっとも、太学や郡国学は寮があるので、住む場所は確保されていましたが
生活費や食費を自分で何とかするのは同じでした。
そのような大学施設がある場所には、貧乏学生が手放した本を
販売している商魂たくましい商人がいたとか・・
「ああ、ちくしょう、俺が手放した本が売られてやがる」
もしかしたら、そんな思いをしながら、本の市場を通り過ぎる
学生達もいたかも知れません。
関連記事:三国時代の音楽ってどんな感じだったの?
関連記事:三国時代の料理と酒って何を食べてたの?英雄たちの宴が気になる
関連記事:寂しい、5日に1日しか帰宅できない三国志時代の武将達
弟子には、さらに辛い状況が・・薪水の労
さて、門生よりも立場が上の弟子には、さらなる負担がありました。
それが、自分ばかりではなく、師の家の雑事も行うという肉体労働です。
現在でも、高名な師匠について、献身的に尽くす事を
薪水(しんすい)の労(ろう)を取ると言いますが、
この言葉通りで、弟子は師の家の薪割りや、水汲み、
食事の世話などまで行う事があったのです。
これはイジメではなく、師との間に特別な信頼関係が出来ている
という事なので、一概に悪いものでもなく、むしろ名誉なのですが、
自分も自給自足をし、師の雑事も行い、しかも学問もするという事では、
とても楽しい学生生活とは行かなかったでしょうね。
関連記事:三国時代の経済ってどうなってたの?
関連記事:三国志時代の通信手段は何だったの?気になる三国時代の郵便事情
三国志ライター kawausoの独り言
このように、後漢の時代の塾での師と弟子の関係は
良くも悪くも、とても濃密なモノでした。
この関係は父子の関係に近い、生涯続く特別なモノとされ、
師が罪を犯すと、弟子がそれを庇って獄に入るというような事が
美談として残っています。
また、後漢の末に発生した、党錮の禁では、清流派の知識人が、
残らず宮中から追放されますが、清流派の師は、沢山の門生や、
弟子と共に山中に籠り、自給自足をしながら、授業を教えた
というような今からは考えられない話もあるようです。
そりゃあ、千人単位で弟子がいれば、山に籠っても、
生徒を使って、雑役をさせ、それなりに生活も可能かも知れません。
ほとんど、小さなコミュニティですが・・
逆に考えると、変な師に就いてしまうと、とばっちりで、
獄に繋がれる可能性もあったという事ですね。おお怖い・・
本日も三国志の話題をご馳走様でした。