この名言は赤壁の戦いで曹操軍に大勝利を収めた呉の大都督周瑜(しゅうゆ)の名言です。
大都督周瑜は赤壁で曹操軍に勝利すると、曹仁(そうじん)が籠る江陵を包囲。
周瑜は一年かけて江陵を陥落させ、彼が夢見た天下二分の計の足掛かりを作ります。
しかし彼は江陵攻略戦の後、亡くなります。
今回の名言は彼が孫権に送った遺言の冒頭部分に書かれた
「人生まれれば死あり。修短は命なり」を紹介します。
夷陵(いりょう)の戦い
周瑜は赤壁の戦いで勝利を収めると、間髪を入れず江陵へ侵攻します。
江陵を守るのは曹家の鉄壁曹仁です。
周瑜は江陵に猛攻をかけますが、曹仁の鉄壁に阻まれ中々上手くいきません。
そのため彼は猛将甘寧に夷陵を占領するよう命じます。
曹仁は甘寧が夷陵を奪い取ったと知ると、夷陵攻撃の軍を送ります。
周瑜は曹仁が夷陵へ進軍したと報告を得ると、凌統を江陵包囲に残し、
全軍を挙げて甘寧を救援するために援軍を送ります。
呉軍は曹仁軍の兵士を数万人捕虜にする大勝利を得ます。
江陵攻略戦
周瑜は夷陵の戦いで、曹仁軍に大勝利を得て再び江陵包囲陣に戻ります。
彼は江陵の兵士が激減している今こそ勝機と見て、
曹仁が籠る江陵へ総攻撃を開始。
曹仁は少ない兵で呉軍の総攻撃を防ぎ、周瑜を負傷させます。
周瑜はわき腹に矢を受けますが、江陵へ再度総攻撃をかけ、
ついに江陵を陥落させます。
しかし周瑜が受けた傷は深く、後にこの傷が致命的になります
劉備の台頭
呉は大都督周瑜の執念によって江陵を奪い、北荊州の足掛かりを作ります。
周瑜が苦労している間に南荊州で想定外の事が発生します。
周瑜と曹仁が死闘を繰り広げている間に、同盟者である劉備は
南荊州全域を奪取していたのです。
呉の大都督である周瑜は劉備が南荊州全域を領土とし、力を付けて来た事に、
危機感を覚えます。
天下二分の計
周瑜は劉備に先を越されないため、呉の本拠地建業へ行きます。
彼は孫権(そんけん)と会うとすぐに献策します。
「殿。劉備に先を越される前に江陵を取り、東の益州(えきしゅう)を奪い、
涼州の馬超(ばちょう)と手を組みます。
その後益州から私が馬超と共に北伐を行い、江陵からは殿の信頼する家臣を北上させ、
殿は揚州から北上すれば魏を打倒する事が出来ましょう。
この策を用いれば劉備は身動きが取れ無くなり、我らが魏を討伐した後、
劉備を倒せば、天下は殿の者になりましょう。」と進言。
孫権は周瑜の大計を受け入れ、益州攻略を任せます。
益州を攻略する為に江陵へ帰還
周瑜は孫権に自らの策が採用されると、益州攻略の準備をするため、
江陵へ帰還する為、孫権と別れ建業を出ます。
しかしこの別れが永遠の物となってしまいます。
周瑜は江陵に戻る途中に、江陵戦で負った傷が悪化し、倒れてしまいます。
【周瑜の名言】「人生れれば死あり。修短は命なり」
周瑜は自らの寿命が残りわずかであると悟り、孫権へ遺書を書きます。
周瑜は遺書の冒頭に「人生れれば死あり(ひとうまれれば)。修短は命なり
(しゅうたんはいのちなり)」と書き記します。
この名言は「人間は生まれればいつか必ず死が訪れます。
短い生涯を終えるのもまた天命である。」という意味です
そして彼が書いた遺言の末尾には「命を惜しむわけではないが、
無念なのは殿の命を遂行する事が出来ないのと、自らの志を実現できない事が
残念でなりません」と無念さが色濃く残っています。
こうして呉の名都督周瑜は江陵に戻る事無く、船上で亡くなってしまうのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
周瑜は非常に短命な武将ですが、もし彼が生きていれば
どうなっていたのでしょうか。
私の予想ですが、劉備の出る幕はなかったでしょう。
周瑜は見事に益州を強奪し、涼州の馬超と手を組み
天下二分の計を実現していたのではないのでしょうか。
そして呉と魏の二大勢力による決戦が行われていたと私は思います。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」
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